箱入り娘に関する詩的考察
岡部淳太郎

箱入り娘に関する一連の推論は、世界という
もうひと回り大きな箱に対する裏切りのひと
つであり、それを論じる者たちは、それを奪
おうとする者たちと同じく、等しく同じ罰を
受けなければならない。箱入り娘とは、ごく
単純化して言えば、文字通り箱に入ったひと
りの娘であり、あるいは、それはひとつの比
喩でしかなく、家庭に閉じこめられ、親の庇
護と保護の下に厳しく育てられ躾けられた、
淋しい娘のことである。そう考えると、彼女
に対して世の男たちが憧憬とともに躊躇を感
じてしまうのも、いわれのないことではない
だろう。箱入り娘を送り、また迎えるのは、
彼女の親以外にはありえず、父親以外のどん
な男も、その権利を持たないからだ。

                 箱入り
娘に関して、ある学者は失われつつある古い
時代の名残に過ぎないと断じ、他の学者は、
否、箱入り娘こそ真に新しい人類の創造主で
あると主張した。このように、ただ箱に入っ
ているだけに過ぎない娘に関してすら、様々
な声が飛び交い、意見の一致を見ないのであ
るから、愚かな人間ごときに宇宙の真理の箱
を開ける鍵が与えられるはずもない。地球だ
とか、地域だとか、狭苦しい箱の中で騒ぐだ
けの人びとに許されるのは、箱入り娘は性的
でありうるかなど、そのような卑近な議論を
蒸し返すのがせいぜいであろう。

               箱入り娘の
生は彼女の身体と同じく、きっちりと箱に入
れられ、梱包されており、そこから脱出して
彼女が生を謳歌するには、奇術師並みの奇怪
な技が必要となるかもしれぬ。彼女は優しい
笑みを湛える親の目に自らも優しく微笑みな
がら、自らの乳房の重みを厭わしく思うだろ
う。おそらく、燃え上がる水や、流される鉄
骨の方位でしか、彼女は成長出来ないに違い
ない。あるいは、濡れそぼつ熾火か、空中に
留まる掛け軸か。そのいずれであっても、彼
女は月毎に吐き出される血の赤さほどには、
自らを満たすことは出来ないであろう。彼女
はまだ人の悪意を知らない卵の白身であり、
遅れた時間に袖を掻きむしる、一匹の歌わな
い蟋蟀であるだろう。

          今日、私の部屋にひと
つの箱が届いた。ちょうどひとりの娘が膝を
抱えて入れるぐらいの大きさの箱である。そ
の中に生きたひとりの娘が入れられていても、
あるいはひとりの娘の遺骨が散乱していても、
私は欲情を覚えることはないだろう。箱とい
うものは、無理にこじ開けてはならないもの
なのだ。娘の固く握られた掌は、柔らかく乾
いている。私は箱を開けずに、私自身の門限
までじっと待つ。豆腐よりも壊れやすく、氷
よりも溶けやすい存在。たとえそれが菓子箱
程度の大きさであっても、そこにはひとりの
小さな娘が入っているに違いない。私が知る
ことのなかった、ひとりの娘の生死の真実。
深夜、私は私の宇宙という小さな箱を満たす
ため、その箱に手をかけ、そっと蓋を開ける。



冒頭部分は、入沢康夫の「季節についての試論」の模倣。




(二〇〇六年二月)


自由詩 箱入り娘に関する詩的考察 Copyright 岡部淳太郎 2006-03-21 22:31:05
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