雨が降っていました。春のくせに、冷たく。雪の方が暖かい。漂いながら。
雨の一滴にこころは惹かれますか?ではゆきのひとひらには?ゆるやかなものに惹かれるのはなぜだろう。でも、場合によっては激しい連続に打たれてしまいたい時がある。胸にとどくことばも、どこかそれに似て。
さて、前回のテキストでは「内在意識の自覚化」について触れました。今日は理科の実験をします(笑)。まず、お手元にうそつき箱をご準備下さい。テレビともいいますね。大きさは問いません。
スイッチを入れます。ニュース。バラエティ。ドラマ。通販。画面は、伝えたいことであふれてる。画像が動き、音が華やぐ。「伝える」とゆう方法論としては、現在の技術力ではほとんど最強なわけです。
ひとまず手を洗いましょう。あっ、その手は拭かなくていいですよ。で、濡れた手をテレビにさしだし、画面に水を思いきり、ぴっ、と放って下さい。
どうですか?
画面に飛び散った水滴は、そのひと粒ひと粒がきらきらと虹の輝きを見せ、ブラウン管全体が光のオブジェとでもいうべき変貌をみせる。精緻な偶然に、しばらく見とれてしまうほど。
テレビは本来、意味を伝える箱でしかない。しかし水滴をいっぱいに浴びたブラウン管は、「伝える」ことを放棄して、ただその光を「美」のためにのみ奉仕している。そこには、いかなる作為も存在しない。
だけど、その美しさにあらがえないのです。
これはとても示唆的だと思うんですよ。意味を超越した美の存在。自分は文字の意味から逃れられないけれど、たぶん才能ある人たちは、意味を飛び越えて魂を揺さぶることができるのかもしれないな、と。意味を用いずに、直接脳髄に働きかける術。あーその魔法欲しい(笑)。
自由詩って、その力があると思うんですよね。とても感覚的な側面がある。
ただね、「偶然の美を意図する」って矛盾でしょ?多くの場合、「偶然を模しただけの意図」になってしまって、ひどいことになり果てる怖さがある。決まり事の少ない分、よほど真摯に胸に耳すませないと。
意味を持たない文字列に惹かれる不思議。そうですね、少し趣は違うんですけど、この作品から受ける印象がよく似てる。中原中也、「サーカス」。その中で中也はこう、詠っています。
…
サーカス小屋は高い梁
そこにひとつのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
…
って。その擬音語に意味はない。ほかの文字列だって意味は通る。だけどこれでなきゃだめだ。違いますか?
初出 「世界中の詩人を敵に回しても」:over the sin 詩人シナプス
改訂 3-12-06