冷めた水③(1986.12・30)
木立 悟





 最近、よく喉を詰まらせる。それも食べ物ではなく、飲み物を飲んでいる時だけ、詰まらせるのだ。何故なのかわからないが、そうなってしまうと一分以上、咳が止まらなくなる。最初のうちは苦しいが、一分を過ぎるころになると、意識が身体から離れはじめ、咳をし続ける自分自身がおかしくてたまらなくなる。しまいには「いつまで続くんだろう。咳の数でも数えようか」などという考えが浮かんできたりする。
やっと咳が止まった後も、日常的な出来事がひとつ過ぎたという感覚で、「今、恐ろしいことが起こった」とか「このまま死んだら悲惨だ」とかいう思いは全く無く、「苦しさ」よりは「意志では制御できない肉の反応」のほうに「なるほど、なるほど」と思ってしまうのだ。
 いつも願っている。「理性のけもの」に喰い殺されて死にたいと。だが一生かかってもできるかどうかわからない。のぞみの生も死も得られぬまま、いつか咳の数を数えながら死ぬのだろうか。「なるほど、なるほど」と思いながら死んでいくのだろうか。
遠い遠い。ひとりひとり。


 静かな空疎に至ってはじめて、胎みの音を聴くことができる。血管のシンメトリー。骨のメカニズム。眼球のパラドクス。さざめきは刃を手にして指揮者を拒み、布人間のたたずみを見守るばかり。朝焼けにミミズクはカタカナで鳴き、笑顔のカラスを満腹させた。足の無い鉄塔が小さく輪を描き、見えない月に向かって許しを請う。私を超えた私が微笑み、私のようで私でないもの、私のままの私とともに、湿原の冬を祝おうとする。








自由詩 冷めた水③(1986.12・30) Copyright 木立 悟 2006-03-04 13:25:56
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「吐晶」より