仄かな言葉
白石昇

 裾の長い制服に足を通そうとした瞬間、わたしは鈍痛と共に内股を伝い降りてゆく生暖かい感触を認識した。わたしは最初、下腹部に感じたその鈍い痛みをただの食あたりか何かから来るものだと思った。
 わたしは内股を触ってみた。でも、手に感じた軽いぬめりを持った暖かい液体は、明らかに直腸からもたらされたものではなかった。
 わたしは知らなかった。なにも知らなかった。なにが起こったのか、わけがわからなかった。わたしは大きな声を出しておかあさんを呼んだはずだった。だが、わたしのその声は全くわたしには聴こえなかった。


 おかあさんは、十五歳になるまでその、わたしの身に起こってしまった身体の変化についてこれまでなにひとつ教えてはくれなかった。学校で教えるものだと思っていたのかもしれなかった。
 知らなかったから、わたしはひどく混乱した。おそらくその混乱のせいで、わたしの耳は音声を感知しなくなったのだと思う。おかあさんは申し訳なく思ったのか、わたしの掌に指を踊らせ何度も謝罪するように文字を書き、わたしの身体に起こった変化について説明したが、わたしはおかあさんが音声でわたしに説明できない事を、ひどく煩わしく感じている様子が伝わってきて、申し訳ないことになったなあ、と思った。わたしはおかあさんのその煩わしさを掌で感じながら、自分の皮膚が周りの空気に対して鋭敏になっていくのをゆっくりと少しずつ感じはじめていた。

 あまりにも幼かったのでもうほとんど記憶にはないが、白内障で光を失ったときのわたしは、いまよりももっと、手に負えないほど混乱した、とおかあさんはまだわたしが空気の細かい振動を鼓膜で関知していたほんの少し前まで言っていたし、聴こえなくなってからはわたしの掌に書いた。
 わたしはおかあさんがかなり落胆している様子なのを感じた。おそらくおかあさんは泣いているはずだった。もし耳が聴こえていたなら、おかあさんが泣いている声まではっきりと聴こえるだろうな、と思ったが、よくよく考えて見ればわたしの耳が聴こえなくならなければおかあさんが泣いたりする事もないのだ。

 おかあさんに連れられていった病院らしき場所では、わたしの耳が聴こえなくなった原因ははっきりしないらしかった。たとえはっきりしたとしても、手術とか、施薬とかの即物的な治療を受けることによって完治する、といった種類のものではないだろう。それは何となくだがそういう状況になったわたし自身が一番よくわかっていた。

 わたしは、とりあえずいろいろなものを触ってみることにした。音声に頼ることなく身の回りにあるものを認識できるようになる必要があったからだった。
 机、テレビ、電話器、文具。とにかくありとあらゆるものを、わたしは触り直してみる。
 それは全く新しい感覚だった。音声を感じることがなくなってからわたしは、しだいに自分の触覚能力が拡大してゆくのを感じていた。強く接触しても、弱く接触しても、わたしの鼓膜を震わせているはずの空気の振動はもう、わたしの脳に何の信号らしきものも送ってこない。ただ、触った感じだけがそこにあった。
 同じ事は嗅覚にも言えた。以前のわたしならば皿に当たるフォークや箸の音によってその皿に載せられている料理がスクランブルエッグか卵焼きかを判断していたが、音声を全く感じなくなった今は、卵焼きに入れられた微かな醤油と砂糖の香りを嗅ぎ分けられるほどだった。

 わたしは身の回りのありとあらゆるものを触り、嗅ぐ事によって新しく認識しなおしていった。わたしの皮膚は温度や堅さに敏感になった。特に指先はまるで、わたしを導く孤独な案内人だった。
 わたしが今、何処にいて、何をしなければならないのか、指先は確実に何かを探り当てて、その特性を認識することによって分析する。実際に認識しているのは頭なのかもしれなかったが、わたしにとってそんなことはどうでもよかった。わたしは、自分の指に脳が存在し、考えることを覚えたように思えた。

 わたしはわたしが持つ機能を最大限に使って、身の周りにあるほんのささやかなことだけ把握できれば、それだけで良いと思っていた。それ以上のことは求めようと思わなかったし、求めても無駄なことは最初からわかっていた。

 わたしは学校を変わることになった。変えなければならなかった。光どころか音声まで感じられなくなったわたしが勉強できる場所は限られていたからだった。
 それはまるで住む国を変えることくらいに大変だと思ったのはおかあさんだった。わたしにとって、新しい場所へ外出することは、それほど大変な事らしかった。おかあさんはたいそう心配しているらしく、同じ事を何度も何度もわたしの掌に書いたが、わたしにはどう説明されても何がどう大変なのか良くはわからなかった。

 耳が聞こえていた頃にはよく、科学者になりたい、と思った。科学的な原理や法則は、曖昧なところがない、わたしは曖昧でない事についてじっくりと考えることができたらいいと思っていた。音声を感じることさえできればまだ、講義や授業は聴くことができるし、かなりの知識を蓄積することもできる。わたしにとっての問題は使える器官や機能の数ではなく、その限られたものの使い方だった。しかし、それにも限度があった。器官や機能を限定される、ということは、知識を吸収するための媒体を制限されると言うことだった。わたしは科学者になりたい、という気持ちを封印する気はなかったが、その事については極力考えないようにした。考えない方が楽だった。

 転校することになったのも、授業を聴くことができなくなったせいだった。今までと同じ方法で同じ媒体を使って知識を吸収できなくなった以上、それはしようがないことだった。

 新しい学校は家からかなり離れているらしかった。そこに決めた理由は少しでもわたしの土地勘のある場所がいいから、というおかあさんの提案によるものだった。新しい学校は親戚の家の近くにあった。最初の一週間は電車におかあさんと二人で乗って鶴橋駅まで行き、その近所にある親戚のおばさんに手を曳かれて学校へ行った。
 おかあさんとおばさんはわたしがひとりで確実に通えるようになるまでずっと、わたしの手を曳いて学校へ連れてってくれるつもりみたいだったが、わたしは四日程で学校までの道順とそれを正確にたどるための目印を把握してしまった。いつまでもついて来てもらっていては、新しい状況に慣れることができない、とわたしはおかあさんに言った。しだいに他人に手を引かれることが煩わしくなってきていた。

 三日後、どうしてもひとりで行く、というわたしの意見を何とか聞き入れたおかあさんが、しばらくの間はこっそりとわたしの後をついてくることは容易に想像できた。実際、わたしが家を出ると、背後から家のドアを開閉する微かな風を感じた。

 わたしはひとりで家の前に立つとまず、右手に持ったステッキを地面の上で派手に振り回した。

 ずっと昔に先生から教わった事をあらためて繰り返してみる。当然、地面にステッキが当たる音は聞こえなかった。先生、っていうのは一体何の先生だったのだろう、とわたしは堅いアスファルトの地面でステッキを弾ませながらふと思う。まだ小さい頃、週に何度か家に来て、目が見えないわたしに光や色に依存することなく身の回りの状況を知るための技術を教えてくれたその人の顔や名前を、わたしはもう思い出せなくなっていた。
 その人の教えてくれた技術の上では、音声が大きな手がかりだった。しかし、音声を感知することができなくなった今となっては、音でステッキに当たる物体そのものの堅さや素材を把握することはできなくなったが、それはわたしにとってただ、音のかわりにステッキの弾み具合や手元に感じる振動が、わたしがわたしの周りに存在するものすべての状況を知るための重要な手がかりになったというだけのことにすぎなかった。

 わたしはゆっくりと道の何処に何があるかをステッキの感触で確認しながら、野田阪神駅まで歩いた。時間がかかるのは承知の上で、いつもより一時間半前に家を出た。おかあさんの気配は、わたしの背後で現れたり消えたりしていたが、わたしは、おかあさんははじめからいないものと考え、今、自分が置かれている状況を把握することに意識を集中させた。

 野田阪神駅に着いてわたしは、まだ朝早く、地面に独特の湿度が感じられない駅の床面を叩きながら券売機に行き着いた。
 点字の案内板を探り当て、鶴橋までの切符を買う。点字に触れた途端、わたしの中から言葉が生じた。わたしはわたしの中にある言葉を呼び起こすものが、もうすでに音声ではなく、この点字や時折わたしに近い人間がわたしの掌に書く文字しかなくなったことを、そのときにあらためて感じた。

 ふと、かなり明るくなってきた朝の日差しに意識を移す。あまりにも日差しが強くて、網膜が赤くチカチカする時には着けるが、わたしは普段サングラスは着けないことにしていた。それは、少しでも赤っぽい光を感じることができるわたしの網膜の感覚を大事にしたかったからだった。もし今後、わたしの視神経が、光が感じられなくなるのだとしたら、それが完全に暗黒の世界に埋没してしまうまで、わたしは少しでも、光の残滓を感じていたかった。

 電車がホームに入るタイミングは、
《わたしは目と耳が不自由です。南巽方面行きの列車がホームに着いたら教えて下さい。》
 と書いたカードをホームにいた乗客に見せ、教えてもらった。

 わたしがステッキを弾ませながらホームを歩くと、他の人がよける気配が、まだ耳が自由だったときよりもはっきりと感じられるような気がした。
 しかしそれは、もしかしたら、わたしの被害者妄想に近い感情から来るものかもしれなかった。

 ホームに設置されている点字ブロックをなぞってゆけば乗車位置を確認することはできるし、入ってくる風の変化で電車が停車するタイミングは知ることもできる。
 わたしは、明日からはせっかく作ってきたたくさんのカードを他人に見せずに済むかもしれない、と思った。

 昨日あれほどおかあさんと二人で時間をかけて作ったカードが徒労に終わるかもしれないと思うとなんとなく淋しかった。わたしがタイプで点字を打ち、おかあさんがその裏に文字を書く。おかあさんには悪かったが、それはかなり時間のかかる作業だった。

 ふと、背後におかあさんの気配を濃く感じて、わたしは声を出しそうになるが、その気配を無視したままわたしは電車に乗り込んだ。
 電車の中は涼しく、停車時と運行時の振動の違いを感じ分けるのに集中できた。わたしは手を曳いて電車内まで導いてくれた人にすすめられるがままドアに一番近い席に座った。その人の手は堅かった。男の人に違いないと思った。わたしは電車の振動が変化する間隔をチェックして、鶴橋までの停車回数を数えてはいたけれど、一応その男の人にカードを出して訊いてみた。
《鶴橋駅に着いたら教えて下さい。》
 と書いてあるカードだった。
 手首に二回、優しい感触が帰ってくる。
「よろしく、おねがいします。」
 とわたしは言ったはずだった。自分の出した声の大きさが全くわからなかった。その事が恥ずかしかった。

「どうも有り難うございました。」
 電車を降りるときに、わたしは再び言った。その人はまた二回、わたしの肩を叩き、わたしの手を取ってドアまで導いてくれた。
 わたしは、自分の声の大きさに対しての恥ずかしい気持ちや、その人の親切に対して感謝する気持ちよりも、自分が数えた通りに鶴橋の駅に着いたという満足感でいっぱいに充たされていた。

 鶴橋駅のホームは、野田阪神駅よりも、ホームの人口密度が高いようだった。
 わたしはホームに足を置いた途端にはっきりと強い大蒜の匂いを感じた。ステッキを弾ませる度に、わたしの周りにいる人々の気配が四散する。空気の流れが変わり、気配が離れていくというよりも、大蒜の匂いの濃度が変化する様が、わたしにその様子を把握させた。

 人々ははっきりとわたしを避けていた。

 まだ音声を感知できた頃も、わたしは自分の周りにいる、わたしを避ける人達の発する音声で、わたしとその人達の違いを感じていた。それは音が聞こえなくなっても変わらなかった。わたしとその人達との間にある溝は、深かった。

 わたしの耳が機能しなくなった今でも、わたしとその人達との間にある溝は、さらに深くなるというわけではないだろうと思う。他人から見たわたしは外見的には何も変わっていない筈だったからだ。しかしそう言った事を考えるのは無意味な事だし、そんな気がするのはわたしの思い過ごしにしか過ぎないのかもしれない。

 わたしは少し被害妄想的にものを考えるようになった自分に気づき、心の中で苦笑する。

 どっちにしたってわたしが他の多くの人達と同じになる事はまずないのだ。もし仮にわたしの耳が音声を感知するようになったり、わたしの目が赤と黒以外のいろいろな光を感じたりする事ができるようになったとしてもわたしが他の人が、視覚や聴覚で感じているいろいろなものを知らないのと同じように、わたしがいま感じている温度や湿度、堅さ、匂い、気配などをわたしと同じように感じられる人はどこにもいない、と思う。

 わたしは改札口へ向かって歩いた。それは大蒜の濃度に従って歩いてゆく事と同じだった。改札口を出て迷うことなく私は左の方へ向かって歩いて行った。
 二週間ほど前までは、とおりゃんせ、のメロディーに従って横断していた横断歩道でわたしは、点字ブロックをステッキで探ることによって横断位置を確認する。できるだけ車道に近づいて車の気配を探ろうと思った。渡るタイミングを測る手がかりは、今のところ走り過ぎる車の風に注意を払うことしかなかった。わたしはとりあえず、近くにいるらしい人に、
《渡るタイミングを教えて下さい》
 と書いたカードを見せて道路を横断することに成功した。渡りながらわたしは、こんなに通る車の量が多い道路なら、車から感じる風で渡ってもいいタイミングを測ることができるけれども、めったに車が通らない道路は渡るのが大変だろうな、と思った。
 それに、さっきのようにいつも同じように信号待ちしている人がいるとは限らなかった。

 渡り切ってしばらく歩き、商店街に入ると、親戚のおばさんの店を探り当てるのは比較的簡単だった。
 店の前で四回、ガラスのドアにステッキを当てる。しばらくして大蒜の濃い匂いと共に、仕込み途中のスープやら肉やら、焼肉屋独特の匂いがわたしに覆い被さってきた。
 覚えのある手の感触が、わたしのステッキを持った手を包み込んだ。わたしは、恥ずかしかったがおばさんに向かって、
「おはようございます」
 と言った筈だった。喉と口の中に広がる空気の震えと微かな温度が今、自分が音声を発しているのだ、と言うことを感じさせた。
 おばさんはわたしの手を曳いて、わたしの右肩を軽く叩いた。おばさんに導かれてわたしはまだ開店前で店内の一番奥の席に座らされた。そこはわたしが一番好きな席で、キムチ樽から一番近い席だった。わたしはこの店の、おばさんが漬けるキムチが好きだった。
 キムチだけあれば他に何も要らず、それだけでご飯が食べられるほどに好きだった。

 ひとりで学校に通う際に、おばさんの焼肉屋をルートに入れたのは、いったん覚えたルートを変えると混乱する、と思ったのもあるが、何よりもわたしがここで、おばさんが作ってくれるお弁当を持って学校に行きたかったからだった。

 ふと、感じ慣れたおばさんの気配が動いた。おばさんは店の入口あたりに行ってしばらく動かなくなってしまったようだった。わたしのお弁当はおそらく、店の人かおじさんが作ってくれているのだろう。
 おばさんは多分、わたしのあとから店に入って来たおかあさんと話をしているのだ。
 わたしのあとにすぐ誰かが入って来たのは、店の中の空気が、外からの空気と混じり合って微妙に変わった事によってわかった。

 それはもしかしたら、おかあさんじゃない別の人かもしれなかった。でも、しばらく座っていると、わたしは店内を流れる焼肉屋特有の濃い匂いに充たされた中に、おかあさんの匂いのかけらを探り当てる事ができた。その匂いは間違いなくおかあさんだった。

 わたしの嗅覚は、ここしばらくの間にかなり強くなってきているらしかった。

 お弁当が運ばれてきて、おばさんがわたしの手をその温かい包みの上に乗せた。わたしはポシェットから紙と鉛筆を出し、メモ帳に左手をしっかりと添え、右手に持った鉛筆の先を突き刺すようにしっかりと紙の上に置いて文字を書いた。そうやって左手に感じる筆圧と筆先の位置をしっかりとイメージしながらでないと、ちゃんとした字は書けない。
 わたしは、
《どうも有り難う。行って来ます。》
 と書いておばさんに渡した。声を出すのがすごく煩わしかった。わたしはこの先自分がだんだん声を出さなくなるのだろうな、と思った。
 音声はもうわたしにとって自分の言葉ではなく、使い慣れない外国語のようになってしまった、と思う。

 自分で聴くことができない音声を発することは、とてもつらい事だった。

 わたしを導こうと手を差しのべたおばさんにかぶりを振って、わたしはひとりで店の入口へ向かった。ガラスのドアを引く。そのときわたしは間違いなく近くにいるおかあさんの匂いをつかみ取った。
 おそらくはわたしの左側、入口に一番近い席のあたりにいるはずだった。わたしは気づいていないフリをするようにつとめた。それがおかあさんに対する礼儀だと思ったからだった。

 駅前の商店街から高等聾学校までの道は単純なものだった。わたしは、昨日までおかあさんやおばさんと歩いて、かなりの曲がるポイントや道端の手がかり、距離感などを、既に頭に入れてしまっていた。それらの知識は、それほど多いものではなく、少なすぎるような気さえした。だけど、まだわたしは、自分がまっすぐに歩いているかどうかを音声によるヒントに頼って判断しようとする傾向が、少し残っていた。そのせいで、歩いていて時折、不安になった。わたしは何度か道を横断したが、そのたびにわたしは近くにいる人の気配と匂いを探り当て、
《渡るタイミングを教えて下さい。》
 と書いたカードを出し、教えてもらった。
 それは、けっして渡るタイミングを掴み取れなかったからではなく、そうした方が、わたしの後ろにいるおかあさんが安心するだろう、と思ったからだった。

 学校での授業は面白かった。

 今まであたりまえにあったものがなくなると、残されたものの機能が向上する、と言うことをあらためて身を持って体感する事ができた。学校の先生はとりあえずわたしに手話を教えた。
 わたしはわたしが手話による表現を身につけると言う事が、それほど重要な事だとは思えなかったが、教室で、わたしの身のまわりにいる他の生徒達は、わたしの動きでしか、わたしの意思を汲み取る方法はなかった。他の生徒に自分の意志を示すために、手話はどうしても覚えなければならない技術だった。

 先生は事あるごとにわたしの掌に言葉を書いた。そしてわたしが背後に先生の匂いと風を感じた途端、先生はわたしの腕を掴んで言葉を形作った。それの繰り返しだった。

 先生や他の生徒達は、わたしが手で何かを表現すると、優しくわたしの身体や手を叩いて了解の合図をしてくれた。やがてわたしは紙に文字を書いて相手に何かを伝える方法よりも、わたしの意思が目の前で風になる、手での表現が好きになった。

 ひとりで通いだしてから四日目の朝、いつも背後に感じていたおかあさんの匂いはなくなった。おかあさんがついてこなくなるとわたしは、学校までの道に存在するいろいろなものを、新しく感じる事ができるようになった。
 いままではおかあさんの匂いが背後に存在することによって、集中力が分散していたのだろう、とわたしは思った。わたしは新しく得たいくつかの手がかりを元に、新しい場所に行ってみたい衝動に強く駆られはじめていた。道は確実にどこかへ続いていて、道端ははいくつもの可能性や手がかりにみちあふれていた。

 何度か学校の友達と公園へ行った。

 その友達の近所に住む男の子が、公園の近くの聾学校に通っていたからだった。その友達と行動を共にするようになったのは、彼女が一番、わたしの掌に言葉を書いて、いろいろな事を教えてくれたからだった。
 いつも公園で会うその男の子は、わたしの臍くらいの背丈で、私が何かを訊くと、返事の代わりに私の腿に肩をぶつけて答える、元気な男の子だった。

 わたしは何度か彼女と一緒に公園に行って、さらさらとわたしの指の間を行き過ぎる砂を触ったり、周りの空気をすべて涼しい風に変えてしまうブランコに乗ったりして遊んだ。
 小さい男の子は、わたしの手話による言葉を良く理解してくれたし、彼女はいつも優しかった。

 わたしはそうして、新たに学校から公園までの道と、公園から鶴橋駅までの道を覚えた。

 そうして彼女と公園を通って帰るようになって一ヶ月くらい経ったある日、彼女はわたしの掌に、
《来週、転校》
 と書いた。

 彼女はそれから何日か経って鶴橋駅の前でわたしの手を強く握りしめた。
 それが、わたしが彼女の存在を感じた最後だった。その時を最後に彼女はわたしの周りから、気配と温度と匂いを消した。

 わたしは何通か彼女に手紙を書いたが、彼女からの返事はなかった。当然と言えば当然だった。考えて見ればわたしからの手紙は、いつも律儀にわたしにいろいろなことを伝えてくれた彼女を困らせるだけに過ぎなかった。
 彼女がたとえわたしに手で書いた文字を送ったり、音声によるメッセージをテープに吹き込んでくれたりしたとしても、わたしにはそれらの媒体を感じる機能がなかった。彼女はもちろん点字などできなかった。

 これからはわたしの身の回りにいて、わたしに触れてくれる人や、点字という手段を使いこなす人としか、わたしはコミュニケーションを取ることができないのだ。
 わたしはその事実をあらためて知ると、悲しくなって公園のブランコに揺られながら、泣いた。

 濡れた頬が風にさらされて冷たく、その感触が妙に心地よかった。

 授業は相変わらず面白かった。わたしはいろんな言葉を形作ってみんなとコミュニケーションを取った。わたしの意思は複雑なものであってもかなり正確に伝わるようになった。
 みんなは相変わらず、わたしの掌に言葉を書いたり、わたしの身体に触れたりして、好意的かつてきとうにわたしをあしらってくれた。
 適当が一番いい、とわたしは思った。わたしは《適当》と漢字で自分の掌に書いてみた。
 てきとう、とは適するに当たる、と書くのだ。それ以上でもそれ以下でもない。他人とわたしの間にはそういった関係が一番いいのだとわたしは思うようになった。

 わたしは家に帰るときだけでなく、昼休みにもひとりで公園に行くようになった。公園はいつも、てきとうな光に充たされていた。
 わたしは公園で感じる光が好きだった。光はいろんなものの良し悪しをはっきりさせる、と何となく思う。赤っぽくわたしの網膜を染める日の光を浴びながら、おばさんが渡してくれたお弁当を広げ、おかずの肉やキムチの匂いを嗅ぎながら食べるのが、わたしは好きだった。

 その日わたしはいつものように、砂場脇のベンチに座ってお弁当を食べていた。そして、なんとなく後ろに立ち止まって動かない他人の気配を感じていた。そういった事自体ごくたまにあることなので、わたしは別段、気にすることもなくお弁当を食べ続けた。
 不意にわたしは、後頭部から耳にかけて穏やかな空気の流れを感じ取る。私の髪がかすかに震えた。
 その、わたしの後ろに立ち止まっていた人が何か言ったのだと思った。わたしは空気が流れてきた方向に振り返り、箸を持った右手で自分の耳を指さして、
《わたしは、耳が、聞こえないんです。》
 と言う意思を表現した。通じたかどうかは、わからなかった。まだ口の中にキムチとご飯が入り混じっていて、声を出すことができなかった。
 それよりもわたしは最近ずっと、声を出していなかったので、声を出せるかどうか不安だった。わたしはそのまま再びお弁当を食べはじめた。その人の気配はまだ背後に残ったままだった。
 緊張して、なんとなく味がわからなくなった。

 何とか食べ終えるとわたしは、ポシェットを探り、背後に存在する気配の発信源に向かって、
《わたしは目と耳が不自由です。》
 とだけ書かれたカードを出した。

 あまりにも抽象的で自分の意思が存在しない言葉だと思った。これまで一度も使ったことがないカードだったので、まだ、指が切れそうな程堅く、点字の凹凸がはっきりしていてわかりやすかった。

 一体、どのような状況を想定して自分がこのカードを作ったのか、思い出せない程だったが、もしかしたら、今日のような状況を想定して、自分がこのカードを作ったのかもしれない、とわたしは思った。
 その人はなぜか二回、お弁当の包みの上に乗せていたわたしの手を叩いた。男の手だと思った。わたしはポシェットからメモ用紙を出して、
《ここで、何してるの?》
 と書いた。自分でも、何でそんなことを訊くのか、わからなかった。わたしは自分の左の掌をかれの方に向けた。

《ひ》・《な》・《た》・《ぼ》・《っ》・《こ》

 わたしの手にはたどたどしくひらがなが形作られていった。その文字を感じながらわたしの身体の中から緊張感がさらさらと抜け落ちてゆく。煙草の匂いがした。ショート・ホープ。お父さんが喫っているものと全く同じだった。
 わたしは新しい紙に、
《ショート・ホープ》
 と書いてみる。せっかく生じたコミュニケーションの間隔を空けることがすごく怖かった。
《すごいね》
 かれはそうわたしの掌に書いた。かれの吐く煙が温かかった。

 すごく楽しかった。かれと話す事も、かれの手で身体に触れられる事も。
 日差しがすごく暖かく、赤かったせいかもしれなかった。わたしは、ぎこちなく他愛もないコミュニケーションをかれと重ねながら、かれについてのいろいろなことを想像した。そして次第にその、自分で作り上げた想像にひどくもどかしさを感じ始めた。そしてわたしは、とうとう、
《あなたは誰?》
 とメモ用紙に書いた。

 かれの名前を聞くと、わたしは学校へ戻って普段通り午後の授業を受けた。だけど、できれば戻りたくなかった。わたしが訊く前にかれは、今度いつここに来るのかわたしに訊いた。わたしは、
《今日の夕方、四時半くらい》
 と紙に書く。わたしたちは再び会うことを約束し、別れた。

 わたしの生活は、その日から一変した。わたしは毎日、かれとお弁当を食べるために公園に行き、毎日四時半に待ち合わせるようになった。かれに手を曳かれて鶴橋駅前まで行き、おばさんにお弁当箱を返して電車に乗って帰る。そんな毎日が続いた。
 かれに手を曳かれて、ステッキをつくことなく駅までの道を辿るのはとても楽しかった。

 わたしはかれの顔を触らせてもらった。

 かれの顔は、お父さんやおかあさんと違って、つるりとしていた。わたしはかれの年齢を訊いた。わたしと同じ歳だった。
 かれと会うようになってから二日に一冊、どんなに節約して書いてもわたしのポシェットに入っているメモ帳はなくなっていった。おかあさんはその度に新しいメモ帳を買ってきてくれたが、明らかなわたしの変化に、
《誰と話してるの毎日》
 と訊いてきた。
《ともだち》
 わたしはおかあさんが用意してくれた新しいメモ帳の一枚に、そう書いて渡す。
 その紙を受け取って、しばらく反応はなかったが、おかあさんはやがてわたしの左手を取ると、掌に、
《こんど家につれてきなさい》
 とだけ書いた。

 わたしはかれの匂いを覚えた。ショート・ホープの煙の中にとけ込んでいるように感じる土に似た汗の匂い、それがかれの匂いだった。一緒にお弁当を食べるとき、かれの肌は少し汗ばんでいて、わたしはそのさらりとした汗を纏った腕に触れたり、匂いを感じたりするだけで、度々、自分が食事中だと言うことを忘れた。

 わたしは紙に、
《なぜ?》
 と書く。かれは
《?》
 マークをわたしの掌に書いた。
《毎日》
《なぜ?》
 わたしは再び言葉を繋ぐ。
《すきだから》

 かれはわたしの掌に、そう書いた。かれの書くひらがなが、すぐに言葉となってわたしの内部に浸透する。わたしはすぐにかれの言葉に答えようとして、メモ帳を手に取る。

 身体から、言葉が溢れ出る感覚がすごく楽しかった。かれの言葉を身体中で感じているような気がして嬉しかった。

 日曜日、公園で待ち合わせてわたしはかれをわたしの家へと導いた。いつもとは逆に、かれの手を曳いて歩くのは少し変な感じがしたが、すごく楽しかった。右手にステッキを持ち、わたしの左手とかれの左手を繋ぐ。かれは時折、とりとめもない言葉をわたしの背中に書く。わたしはその度に頷いたり、少しだけ後ろを振り返ってほほえんだり、かれの手を握っている手に強弱を加えたりした。

 家に着くとわたしは、玄関に出てきて来たおかあさんとかれの手を互いに握らせた。後はおかあさんとかれが、音声でコミュニケーションを取るだろう、と思ったからだった。
 それになんとなく二人が話す現場にいるのが恥ずかしい気がした。家の中でおかあさんとかれの匂いがゆっくりと混ざりはじめていた。

 わたしはかれとおかあさんを置いたまま、ひとりで台所に向かった。いつもの場所に置いてあるメーカーのコンセントを探り、コーヒー豆を入れて水を注ぐと、スウィッチを入れた。そしてわたしはカップを三つ、用意してテーブルの、いつもの席に座った。この席にいれば、コーヒーが出来上がったときの湯気をわたしは感じる事ができる。

 わたしは以前から極力、いろいろなことを自分でやりたい、と思っていた。ゆっくり、ちゃんと段取りを確認しながらであれば、料理だって作れると、わたしは思っていた。
 しかし、危ないから、という理由でわたしが火や刃物を使うことは許されなかった。
 おかあさんはいつもわたしに限られた事しかやらせたがらなかった。わたしが扱うことを許されていたのはコーヒーメーカーまでだった。

 テーブルが微かに揺れた。おかあさんとかれが椅子に座ったらしかった。わたしのすぐ近くには、おかあさんの匂いがあった。かれはわたしから遠い位置に座ったようだった。
 おかあさんの匂いと、少し離れた場所から感じるかれの匂いとが、出来上がりつつあるコーヒーの匂いに少しずつ掻き消されていった。

 わたしは暗い洞窟に、コーヒーの怪物と二人きりで置いてけぼりにされてしまったような気がした。わたしはカップを置き直すふりをしてテーブルの上を探ったが、おかあさんの手は何処にあるのかわからなかった。おかあさんとかれは、やはりわたしから少し距離を置いて座っているらしかった。

 急に淋しくなってわたしはカップを右手に持ったまま立ち上がり、左手でおかあさんの肩を探り当てるとその前にカップを置いた。
 おかあさんは、わたしの左手をいつものように優しく叩く。わたしは更にかれの前にもおかあさんと同じようにカップを置いた。どうしても二人の正確な位置を確認しておきたかった。かれもおかあさんと全く同じ強度でわたしの腕を優しく叩いた。

 わたしは席に戻り、コーヒーが出来上がるのを待った。出来上がると、わたしを制しておかあさんがわたしの前にあるカップにコーヒーを注いでくれた。おかあさんとかれの話は、まだ続いているらしかった。コーヒーの湯気がテーブルの上を漂い始めると、おかあさんとかれは再び話の続きを始めたようだった。

 わたしは自分が淹れたコーヒーをひとりで飲んだ。コーヒーは美味しかった。わたしはかれに何か言葉を書いて渡そうと思ったが、おかあさんがいる前ではなんとなく恥ずかしい感じがして、メモ用紙に向かいかけた手をカップに戻した。

 わたしはおかあさんとかれの邪魔をしないように、ゆっくり時間をかけてコーヒーを飲み続けた。飲んでいるうちになんだか腹が立ってきた。

 いつもこうだ、とわたしは思う。音声を自由に操れる人達が真剣に会話をし始めると、決まってわたしはひとりになる。

 わたしが使う事ができない機能を使ってコミュニケーションを取ることによって、かれらはわたしの手の届かないどこかに行ってしまうのだ。

 コーヒーを飲み終えてしばらくそんな事をあれこれと考えていると、遠くにあったかれの匂いが一段と濃くなった。かれはわたしの手を取ると掌の上で指を踊らせ、
《もうかえるよ》
 と書いた。
 わたしはおかあさんにわからないような角度にかれの掌を向け、
《なぜ》
 と書いた。それについての解答はなく、かれはただ、
《コーヒーおいしかった》
 とだけわたしの掌に書く。わたしは素早くメモ用紙を取り、
《駅まで送ってくる》
 と書いておかあさんに渡し、立ち上がった。

 駅までの道、わたしは来る時とは逆に、かれの後ろで手を曳かれて歩いた。かれは時折、わたしの手を強く握ったり、緩めたりした。ひっきりなしにショート・ホープの煙が流れてきた。
 駅に着くとかれはわたしの掌に、
《またあした》
 と書いてわたしの手を離した。わたしはかれが振り返るときの風と、遠ざかっていく匂い、手に残ったぬくもりを慈しみながら、かれとおかあさんの間に交わされた会話をあれこれと想像した。
 わたしはおかあさんに、かれとどんな話をしたのか訊きたかったが、家に戻っても結局、訊かなかった。
 わたしがわたしにしか感じ取れない事があるように、おかあさんとかれが、わたしが感じ取れない世界で言葉を交わしたのだから、それをわざわざわたしが知ろうとすることもないだろう、と思った。
 それでもわたしはおかあさんに、
《どうだった、かれ?》
 とだけ書いた紙を渡した。おかあさんはしばらく時間をおいてわたしの掌に、
《元気な子ね》
 とだけ書いた。

 次の日、かれはいつものように公園でわたしの両肩に手をかけて現れた。わたしは箸で柔らかい白菜の感触を探り当て、隣に座ろうと動き始めたかれの方に向かってキムチをひとつまみ、差し出す。箸先にかれが食らいつく感触がわたしの手に伝わった。
 かれはしばらくいつものようにわたしがお弁当を食べ終えるまで、隣にちょこんと座っていた。時折、かれの腕が擦れるようにわたしの肩に当たる。少しだけバターの匂いがしたので、もしかしたらかれは、パンでも食べているのかもしれなかった。わたしは食べながら時折、わざとかれの腕を肘で何度かつついた。

 いつも通りのお昼だ、と思った。いつも通りのお昼であることが不思議なくらいいつも通りのお昼だった。公園は光に充たされていて、風は優しかった。

 お弁当を食べ終えてカバンの中にしまうとかれはわたしの手を握り、掌に、
《もうあえない》
 と書いた。
 わたしはそんなに驚くほどショックではなかった。メモ用紙を出してかれに
《なぜ?》
 とは書いたりはしなかった。何となく、昨日からイヤな感じがずっとしていたからだった。
 わたしはゆっくりと手を動かし、かれの顔を触ってみる。

 瞼、鼻、口唇、耳。

 いつかは来るだろう、と思っていた日が来てしまったのだ、とわたしは思った。
 おそらくおかあさんは、わたしという人間が感じている世界を共有しようとする事が、どんなに困難な事なのかを、昨日、かれに、説明したのだと、わたしは思った。
 わたしの聴覚が機能しなくなってからの、おかあさんの疲れ方はひどいものだった。
 それはおかあさんの手の動きや、匂い、時々吐き出す暖かい吐息などから、明らかに感じ取れた。

 わたしがクサることなく前向きに状況を受け入れ、可能性を広げようとすればするほど、近くにいる人間はそれを補助しようとして、疲れてゆく。

 かれも、少しずつおかあさんと同じようなものを感じ始めていたのかもしれなかった。

 自分が感じる事ができる世界だけで生きていくことになったわたしよりも、わたしが感じている世界と、自分が感じている世界の間を行ったり来たりする方が疲れてしまうのはあたりまえの事だった。

 わたしはそのことに気づいてはいたけれど、気づかないふりをしていたのかもしれなかった。
 わたしは方法を探した。わたしの感じている世界と、かれの感じている世界を無理なく融合させる方法を。
 けれどそんな方法は見つからなかった。諦めるより他に無かった。

 わたしは自分の頬にひんやりと涼しい風が当たっているのを感じた。かれがわたしの前から去ることによって、あの転校してしまった子と同じように、いずれわたしの中からも消えてしまうのが悲しかった。もっと、かれについての手がかりを自分の中に残しておきたいと思った。

 かれはわたしの頬を何度か指で拭うと、湿ったままの指でわたしの掌に、
《しよう》
 と書いた。かれのその提案が、何を意味しているのか、痛いほどに感じ取れた。わたしは頷いた。わたしも同じ事を考えていた。何を、どのようにするのかなんて、考える必要はなかった。
 わたしたちがお互いの世界を共有していたしるしを、それぞれの中に刻みつけるためには、もう、する事の他には何も残されてはいなかった。

 いつもと同じように四時半に公園でかれと会ってすぐに、わたしたちはかれが停めたらしいタクシーに乗り込んだ。わたしはタクシーの中でかれの手をずっと握っていた。どこに向かっているのか、全くわからなかったが、少しも怖いとは思えなかった。

 空調が整った、澄んだ空気に充たされたどこかの部屋で、わたしは公園からずっと握っていたかれの手を初めて離した。手を離すとかれはゆっくりと、両手で撫でるようにわたしの顔を支え、わたしの顔中に口唇を押し当て始めた。
 かれの、いつもわたしに優しく触れる指よりも暖かい、口唇の感触が心地よかった。かれの手が、わたしの服の上でもどかしげに動き回っていた。
 わたしはその手をゆっくりと払って、自分で服を脱ぎはじめる。足を包んだ長い服の紐をほどいて、上着を脱ぎ、ブラジャーを外す。かれの左手を握り、体重を預け、バランスを取りながら、脚を片方ずつ上げて、下に穿いていた服と、ショーツを脱いだ。
 迷いはなかった。かれの右手は忙しくわたしの身体をじかに撫で始める。わたしが、そのかれの右手に自分の手を重ねたまま、もう片方の手でかれのシャツを脱がそうとすると、かれは少しだけわたしから身体を離す。

 汗の匂いがした。わたしはなぞるようにわたしを引き寄せたかれの手に自分の手をかけながら、つるりとしたかれの背中に掌をあてた。

 引き寄せられるがままに歩いて、とまった場所は浴室だった。
 足の裏に感じるタイルの感触が冷たく堅い。
 足元に、冷たい飛沫を感じた瞬間、ぬるめの水がわたしの身体にかけられた。わたしはわたしの身体にかけられている水の、跳ね返った飛沫に濡れてゆくかれの上半身を、ゆっくりと撫でた。水気を含んだかれの肌はいつにもましてつるりとしていた。
 わたしは、かれから渡された石鹸をかれの身体中に塗りつける。
 時々かれが思い出したようにわたしを抱きしめる。その度にそこだけ腫れたように熱を持ち堅くなった部分がわたしのおなかに当たった。その感触が、いい感じだった。わたしはそこを両手の平で包み込むようにして石鹸を塗った。
 わたしの掌の中で微かに動くその部分を触っていると、わたしはそれがわたしの掌に字を書いているような気がした。

 裸のかれと胸を合わせると、今まで感じたことがない温かさを感じた。身体中に小さい灯りがともったような、そんな感じだった。わたしはもう立っていたくはなかった。身体中の力を抜いて、引力に身を委ねて、澄んだ空気に身を任せたかった。
 かれはわたしと胸を合わせたまま、わたしの背中に石鹸を塗り始める。わたしはかれの胸に口唇をつけてみた。かれの胸は、石鹸の味がした。

 わたしは、すごく、この、今わたしが腕を巻き付けているかれという生き物が、愛おしかった。

 かれは、わたしの身体を丁寧にタオルで拭ってくれた。拭い終えて髪にかれの温かい息を感じたその瞬間、わたしはかれに抱きかかえられた。足が地面に着いていない状態が怖かったが、かれに委ねられたわたしの身体は、自然に脱力した。かれの腕を強く掴んだまま、かれの手から柔らかいクッションの上にわたしは落とされた。
 わたしは自分が掴んでいるかれの腕を放さなかった。かれも一緒にこの温かくて柔らかい世界に落ちるべきだと思ったからだった。
 わたしとかれは一緒に身体の力を抜いて、クッションに身を弾ませる。かれの身体に力が入り始めて、今、わたしの身体のあちこちに、かれの口唇が重なり始めた。わたしは、手の届く範囲でかれの身体をさすったり、撫でたり、触ったりした。わたしの身体からはゆっくりと力が抜けてゆき、かれの身体にはゆっくりと力が漲り始める。

 かれがわたしの脚の間に指を落とし始めるとわたしは少しだけ身体を起こしてかれの脚の間にある、堅い部分を掌で包むように握ってみた。熱かった。面白い物体だ、と思った。おそらくはかれも、今触っているわたしにはあってかれにはない部分をそう感じながら触っているのだろう、と思う。
 わたしはかれの、もう石鹸の味がしなくなった胸に再び口唇をつけ、注意しなければ見失いそうな微かな突起を探り当てて、かれがわたしにしたように舌先を押しつけ、唇で挟み、軽く吸った。その突起が微かに硬度を増してくるのを舌先で感じながらわたしは同時に、かれが今触っている自分の脚の間が、まるでわたしの身体じゃないみたいに熱くなってくるのを感じていた。

 かれの身体がわたしの手と舌を置いてけぼりにして、ゆっくりとずれた。かれの手があった部分に熱い、湿った物体が蠢き始めた。かれの頭はわたしの足の間でなだらかに動き始める。
 わたしはかれの頭に手を置いて撫でながら、温度を持った部分が互いに引き合うのだ、と思った。わたしの身体の何処をなぞっていたときよりも、かれの舌や口唇は、今が一番、熱かった。

 ゆっくりとわたしの頭上にかれの頭が移動して、かれの両手がわたしの両肩を掴んだ瞬間、脚の間に激痛を感じた。痛みに反応してわたしは全身に一瞬だけ力を入れたが、痛みをこらえながらそのままゆっくりと力を抜いていった。
 今、自分が痛みを感じている部分を中心に、全身が強く脈打っていた。足の間に心臓がついているようで、今わたしの中に入っているかれの熱い部分がわたしの心臓になったみたいだった。わたしの中で確実に何かが毀れたような気がした。

 軽い耳鳴りがした。わたしは自分の鼓動と、かれの鼓動が重なってゆくのを感じながら、いたい、と声に出しかけて、その、自分が発しかけた、い、という声を聞いた。足の間に感じる異物感が不思議に感じられた。
 わたしは、
「動かないで」
 とかれに向かって言う。わたしの声は大きくも、小さくもなかった。
 耳鳴りはゆっくりと下腹部の痛みを伴った異物感と混ざり合うように小さくなってゆき、やがてゆっくりと消えてしまった。

 わたしは内股に、一月以上前に感じたものと同じ、温かい液体が流れる感触を認識した。内股とかれの腰が重なっている隙間に手を当て、あのときと同じぬめりを、指先に感じる。
 かれの、ため息に似た熱い息を首筋に感じながらわたしは、かれに向かって、
「ねえ、血が出てる」
 と言った。かれは、少しだけわたしの声に反応して、
「聞こえてるん?」
 とわたしに訊く。わたしは、初めて聴いたかれの言葉を、しっかりと感じとりながらゆっくりとうなずいた。
 わたしはまだ、脚の間に低く痛みを感じてはいた。その痛みとともにわたしとかれの心音が、わたしの中で二重奏のように重なって脈打っていた。
 その音を聴きながら、すごく素敵な感じだとわたしは思った。かれの吐く荒い息がはっきりと聞こえていた。わたしのまわりで空気がいま、はっきりと振動していた。

        〈了〉


散文(批評随筆小説等) 仄かな言葉 Copyright 白石昇 2006-02-17 14:48:06
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