死神と私 −白い蛾−
蒸発王


“白い蛾が産まれると困るのでしばらく家を出ます”
“追伸”
“白い蛾を見ても殺してはいけませんよ”
こんな置手紙を残して
死神が家から居なくなりました



いつも一緒にいた名付け親が急に居なくなったので
しばらくは置手紙に向かって怒ったり泣いたりしていたのですが
死神が出ていって間も無く私は身ごもり
いろいろと忙しくなってあっというまに母になりました
そして息子が産まれてから

死神はひょっこりと戻ってきたのです

とりあえず三時間ほどお説教をしましたが
息子が少し大きくなった今
昼間私が仕事に出ている間に死神が子守りをしてくれています




仕事帰りの帰路にて
夏にも珍しく夜は久しぶりに熱病の呪縛を解かれていました
今夜の月は涼しげに白く光る満月で
夕方に打ち水で濡らされた歩道の水を蒸発させています
昼間の蝉時雨に変わってバッタの鳴き声が茂みを揺らす垣根を越えて
死神のところへ息子を迎えにドアを叩きます

ドアを開けたとたんに白い風が私を迎えました
しかし良く見るとそれは大群の白い蛾です
真っ白い燐紛で構成された羽がぼんやりと光っています
悲鳴をあげて振り払うと
だめ という息子の舌足らずの叫びと
遅れて

“白い蛾は殺してはいけませんよ”

という死神の注意が聞こえてきました



見れば部屋中のそこかしこに白い蛾が止まって
質素な部屋は純白の白で塗りつぶされています
死神は息子を膝にのせて窓際にいました
私が留守の間に死神が息子にどんな教育をしているのか心配です
文句の一つも言おうとは何度も思いました
けれども息子も息子で死神に良く懐いているので
私に勝ち目はありません

とりあえず蛾を外に出そうと窓に手をかけた時
突然 蛾達が騒ぎ始めました
死神は時計をちらりと見てから私に窓から離れるように言いました
死神が窓を開けると
部屋の中にいた白い蛾達がいっせいに満月に向かって飛んでいきます
純白の大群がものすごい速さで月に吸い込まれ
月と地上を結ぶ一本の橋のように見えました
蛾の一枚一枚の羽の光が月の白光をさらに膨らませて
全部の蛾が月に渡った瞬間に


月の白さが爆発しました


雪か蛍とも見紛う白光の粒が月から降ってきます
真珠のような美しい光が
濃紺の夜空を背景に地上に舞い落ちて
たくさんの家に降り注ぎました


あわれにも流れてしまった胎児の魂は
白い蛾になってこの世にしばらく留まり
白い満月の夜に月に還えるのだと

そしてまたこんな白光になって地上に戻ってくる
この光が母親の腹に入ると胎児の心臓が動き始め
この光がしっかり入らなかった胎児はわけも無く流れてしまうのだと

死神は降ってくる光の粒を見上げながら
生と死の環を息子に教えています


ふと

白い光の一つが我が家の窓に迷い込んできました
すると生き生きと光っていた粒は
死神に近づいたとたんに
彼の放っている死の予感に感染したちまち枯れ果て
白い蛾に戻ってしまいました
死神はそれを哀しそうに見つめています


その時私は気が付いたのです
息子を身ごもる時に死神がいなくなったわけは
息子を流れさせないためだったことを



思わず死神の肩に手を置くと
死神は哀しい瞳のまま


“白い蛾を見ても殺してはいけませんよ”

と願うように呟き
私を見て笑いました







自由詩 死神と私 −白い蛾− Copyright 蒸発王 2006-02-16 21:27:35
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死神と私(完結)