恋愛対象外とホヤと現実の話
腰抜け若鶏

この世界には恋愛対象外という言葉がある。
多くの場合、その異性と恋人として付き合うことができる一定基準を満たさない相手を指す。
信じることを強制はしないが、男女関係の中にはこの種の差別が確かに存在していると私は感じている。

恋人として付き合う事のできる一定基準は人それぞれだと思うが、
その基準の要素の中で一番大きいのは他人の目である気がする。
実際恥ずかしいことなのかもしれないが、
私はこの異性と一緒に道を歩いている所を見られたら何と言われるだろう?と
つい、ふと考えてしまう。

なので必然的にその異性の見た目に評価基準が置かれていることに気が付く。
この異性が自分にはどう見えるか?ではなく、他人にはどう映るか?に重点を置いてしまっている。
この世界のみんながそうであるとは言わない。
けれど少なくとも私の心は私の意識とは関係なく、そのように働いている。

恋愛を理屈で捉えるのは間違いである。そんな言葉を聞いた気がする。
その理由は、理屈にすると男女間の愛とは美しくも素晴らしくも何ともない、ただの…
やめておこう。これを言っても誰も喜ばないだろうから。

けれども夢や理想ばかりを語るのが正しい事だとは私は思わない。
現実は確かにそこに存在する。
まずそれをしっかりと受け止めてからでなければ、本当の意味で深い愛の歌は唄えないと私は思う。

詩を書く者が現実を書くというのは全くのピント外れなのかもしれないが、
理想ばかりの歌では満足できない。ちょうど私は今、そういう時期なのだ。

時期によって人の趣向は変わる。
今はビールさえろくに飲めないが、いつか私も日本酒とホヤがあれば他に何もいらないと言うのだろう。
最近、カキとウニの味が分かるようになった。

「やっとお前にもこの味が分かるようになったか」なんて言われなければ、
「ああ、オヤジ臭くなっちまった」なんて言う必要もないのになぁ。

誰かに余計な事さえ言われなければ私達はもっと快適に暮らせるんだ。
世界中のみんなが少しでも自分の発言に気を使えるようになれば。
その発言で誰かが喜ぶかを考えるようになれば。

そんなに他人に気を使ってばかりいたら、
僕みたいに人と会うのが苦痛になってしまうのだろう。
だから、それはしかたのない事なのだ。
黙って我慢しなければいけない。それも現実なんだろう。


未詩・独白 恋愛対象外とホヤと現実の話 Copyright 腰抜け若鶏 2006-02-16 15:47:05
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