死神と私 −夜霧よ今夜も−
蒸発王

“夜霧よ今夜も有り難う”
風呂場からのん気に聞こえてくる鼻歌を尻目に
私は部屋を出ていきました


前前から
死神の電波加減や頑固さには目を瞑って来ました
でも今回ばかりは限界です
私の気持ちなどあの名付け親はちっとも考えていないのです
その証拠に喧嘩の途中で風呂に入り鼻歌を歌っています
もう何も言わずに出ていきました



季節は
春も枯れた初夏
宵の口に降った五月雨の残り香が
早咲きの紫陽花の上に乗っています
夜闇の匂いも夏のような生臭い匂いになってきました

路には人が少なく
ときおり帰路を走る自転車が横切るだけです
家々の幸せそうな光が夜空に伸びています
そんな光に目が痛くなって
街の灯りの届かない裏路地に入りました
家を出てきたところで私に行くところなどないのです


両親が死んだのは私が5つの頃でした
理由は未だ知りません
ただ黒いワンピースを着せられて
長いこと二つの棺の前に座っていた事は覚えています
突然与えられた感情を『哀しみ』と名づける事もできない幼さでした
其の時
次々と喪服の黒で埋められていく空間で
場違いにも歌が聞こえてきたのです


“夜霧よ今夜もありがとう”


見ると参列者の一人が大きな声で歌を歌っています
とても大きな声でしかも音痴なのに
周りの大人達はその人の姿に見ぶきもしません
その人は私と目を合わせるとにこりと笑い
音も無く私の隣りに来ると
大人達に礼儀正しく一礼し


“こんばんは”
“死神です”


と名乗りました
名乗られて初めて大人達は死神が見えるようにになったみたいです
悲鳴を上げて怖れおののきました
死神は白い封筒に入った父の遺言状を掲げ
私の名付け親であるということ
遺言に従い残された子供を自分が引き取ることを伝えました
大人達は震えていて何も言いません
死神は軽く頷くと
私の名前を呼んで薄い手の平を差し出しました

その手を私は握ったのです



昔のことを思い出して歩いていたら
いつのまにか路に迷っていました
今夜は月が無いぶん闇の周りが早く
足元には降り積もった夜が10センチほど積もっています
その夜闇に足を取られて転びました
瞬く間に夜霧が私を覆い周りが見えなくなってしまいました
私は何処へも行けなかったのです


じわりと滲む涙を無視して視線を泳がせると
目の前に白い足がありました
足だけで身体はありません
足はぴょんぴょんと跳ねて私を待っているようで
立ち上がるとひたひたと歩き出しました
足のあとを追ってどれほど歩いたことでしょう
路の明るさに目をあげると
先刻見た家の灯りで
ひたひたと歩く白い足の向こうには
死神が立っていました


死神は困った顔をしながら
短くあやまって
私の名前を呼ぶと
帰ろう とその薄い手の平を出しました


夜霧の足は
迷っている人を見つけると
本当に帰りたいところへ連れていってくれるそうです
くやしいけれど本当にその通りだったので
私は黙って死神の手を取りました


手を繋いで歩く帰り道
本当にこんな風で良いのです
明日のバージンロードを
こんな風に死神と歩きたいのです
それを死神が断るものだから
喧嘩になってしまいました
みっともなくなんてありません
死神は私の名付け親なのですから



“夜霧よ今夜もありがとう”


と音痴に歌う死神の手を強く握ると
6月の足音が聞こえるようでした






自由詩 死神と私 −夜霧よ今夜も− Copyright 蒸発王 2006-02-11 12:49:01
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死神と私(完結)