誰か私たちの行いに何か正しい名前をください
山田せばすちゃん

さて、最近詩の批評に臨むときには俺はなるべく「技術」面に関してのみ口を出すようにしようと心がけているのだけれど、だって「詩」ってアートなんだもん、引越し屋ではないけれど(笑)昔別冊宝島かなんかで読んだ記憶があるのだけれど、代々木駅に、全紙大の白い紙を張った「落書きコーナー」とか何とか言うものが半ば自然発生的にあったのだそうだ、おそらくはJRのポスターの要らなくなったやつを裏返しにでもして貼ったんじゃないかと思うんだけれど、なんで代々木かというとそれはかつて日本共産党がそこにあったからなんていうのは全然関係なくて(そういえばミヤモトケンジはいつ死ぬんだろう)そこにアニメの専門学校があったりなんかしてちょうどその時期代々木がアニメ系オタクのメッカのような感じだったかららしいのだけれど。
当然その「落書きコーナー」に書かれているのはアニメ絵で、しかも懐かしい言葉で言えば「アニパロ」(笑)というやつで(OUTとか、そういえば、まだあるのかなあ)誰かの書き込みに対して誰かが当意即妙に答えたりして白い余白がどんどん埋まっていくといった類のものだったらしい。ネット環境なかりし頃にも実は人はたいして変わらないことことをやっていたりするものではある。で、何がいいたいかというと、当然その「落書きコーナー」に参加するためには、アニメ絵が描けるという確固たる技術の有無が大前提なわけでね。それはちょうど初期のパソコン通信(何かもう覚えてもいないけどよ)のフォーラムかなんかに書き込みができるのが少なくともウインドウズ3.14を扱える技術の持ち主に限られたのとよく似ているし、もっと遡って考えれば今では考えられないけれども、新聞の読者欄に投稿するのだって「読み書き」が出来るという技術なくしては出来なかったりした事実ともよく似ている。ならば詩の投稿欄に投稿するのだって「詩を書く技術」を持っていることが大前提であってもよさそうなものだ。今更ネットにつなぐこと自体に特権的に技術と呼べるようなものは必要ではないのだし、識字率が90パーセントをはるかに超えるこの国においては読み書きが出来る事だって投稿欄に投稿できるに値する特権的な技術のうちには入るまい。しかしまあ、なんと技術的にお粗末な詩の多いことよ、目を覆わんばかりだぞ。
日本の伝統的短詩系文学である短歌や俳句にはそれでも少なからず技術の体系が存在するようだし、そういう意味ではあの結社というあり方も、師から弟子への技術伝承として働いていることも否めはすまい。添削という、あの独特の指導法だって、定型であると同時に技術が確固として存在するから成り立っているのではないかなどと考えるのだけれど、翻って現代詩といわれる口語自由詩だけが、技術の研鑽を怠っていいわけがないではないか。一応初等の国語教育の中で、詩を読み解くときにやれここは倒置です、だのここは体言止めです、ここはこれこれの比喩ですなどと、技術の解説らしきものを受けた覚えはあるのだけれど、「詩を書く」演習において技術指導なんてされたことは一度もなかったぞ、むしろ、「気持ちをそのまま素直に書くことが大事です」なんておよそ技術論とは正反対の、つまりは大正デモクラシーこの方の「生活綴り方」運動みたいなドグマをいっぱいに受けていたような気がするじゃないか。しかしながら詩の技術を習得するチャンスを得られなかったことをおよそ学校教育にのみその責を負わせるわけにも行くまい。やい、戦前戦後を通じて詩壇とやらを引っ張ってきた幾多の先達たちよ、あんたたちは一体、ろくでもない状況論以外に、詩の技術に触れた詩論なんぞと言うものを、只の一冊とてこの世に残してきたか?詩に技術が必要です、だなんて誰か言ったやつがいたか?
しょうがないので、左翼体験の挫折というとんでもないトラウマを抱えながらも人民啓蒙主義だけは骨の髄まで染み付いたような俺は、技術論からの批評を目指すのだ。
誰か私たちの行いに何か正しい名前をください。




散文(批評随筆小説等) 誰か私たちの行いに何か正しい名前をください Copyright 山田せばすちゃん 2003-07-16 15:03:50
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