ヒロシと寿司と母ちゃんと(吉沢やすみ『ど根性ガエル』)
角田寿星


まあ、いきなりマンガの話です。昔のマンガですね。原作者は吉沢やすみ。
昭和45年から50年にかけて連載されたこのマンガ、ぼくの世代ではアニメの印象がかなり強いです。アニメも大ヒットで、実に103回(206話)も放映されたそうです。

中学2年生のヒロシがすっ転んだ先にカエルがいて、カエル押しつぶされて、カエル死にもしないでヒロシのTシャツに貼り付いちゃう。それだけでも充分荒唐無稽なのに、そのカエル、ピョン吉ときたら、人間のことばを喋るは、メシは食うは、あまつさえTシャツごと(時には着ているヒロシごと)ぴょんぴょん飛び跳ねるは…。
そんなヒロシとピョン吉を中心に、東京下町で(といっても練馬区石神井なんですけど)繰り広げられる他愛ない騒動の数々が、このマンガの主な内容なんですが、まあ、これは軽いイントロダクションつーことで。

ここでヒロシの家にスポットを当ててみましょう。ヒロシん家は、これ以上ない、つーくらいオンボロな貧乏長屋です。ヒロシの父ちゃんは腕利きの大工でしたが、ヒロシがまだ幼い時に死んでしまいました。つまりヒロシん家は母子家庭なんです。ヒロシの母ちゃんは洋裁の内職をしながら、女手ひとつでヒロシ(とピョン吉)を育てているんです。そしてヒロシといえば家の手伝いもせず毎日遊んでばかりで…ドラ息子ですね。
この「親のいない家庭」というのは、作者吉沢やすみの重要なモチーフとなっているようです。例えば宝寿司の板前、梅さんは孤児でしたし、不良少年の新八も確か孤児だったはず。梅さんなんかは昭和17〜20年生れと推定されますので、あの明るい笑顔からは想像もできないような、筆舌に尽し難い少年時代を送ってきたに違いありません…。梅さん絡みで孤児院施設もよく登場します。
ぼくは吉沢やすみの作品は、あとは『おっとこ雷太』くらいしか知らないんですが、ここでも母子家庭で、しかもトラック運転手の母ちゃんが心筋梗塞で死んでしまうんです。

吉沢やすみの略歴を検索してみたけど引っ掛からないので、ここからは推測で書くしかないんだけれど、彼の家もきっと母子家庭だったんだろうな、と思われます。ヒロシの母ちゃんは推定40前とは思えないほど老けています。高度成長期前の日本で、女手ひとつで生活していくのは、かなりの苦労があったんだろうなと偲ばれます。
(…私事で恐縮ですが、今年95歳になるぼくの婆ちゃんもまた、戦中に爺ちゃんが病死して(しかもその爺ちゃんが戦争に反対してて)、戦後間もなくの小樽で、女手ひとつで三人の子どもを育てて、そのうち二人を大学に行かせて…という、やっぱりすごいことだよなあと、ただただ思います。)

宝寿司のいなせな板前、梅さんは、ヒロシの境遇が孤児だった自分と重なるのか、ヒロシを弟のようにかわいがってて、何か事あるごとにヒロシに寿司を食わせる。しかもタダで食わせる。ヒロシもまた遠慮すりゃいいのに、バクバク寿司を食う。ピョン吉もバクバク食う…カエルのくせに(笑)。
こんな事やってりゃあ宝寿司ツブれるし、梅さんクビになってるよなー、と普通は思うんですが…もっと解せないことがあるんです。
昭和40年代って、寿司ってーのは、なかなか食べられない高級品だったんですよ。現在みたいに回転寿司や小僧寿司がバンバンあるような時代じゃなかったんです。現に当時の石神井には、寿司屋は2軒しかなかったそうです。
宝寿司ってのは小さな店です。カウンター数席の奥に座敷が2、3席ある程度で、おそらく本当は大将ひとりで事足りるくらいの店でしょう。それなのに、将来とうてい上客になんかなりそうもない貧乏少年ヒロシに、寿司をバクバク食わせる…そんなことは、どう考えても有り得ないんです。

原作者の吉沢やすみは昭和25年生れ。母子家庭だったと推定して書きますが、少年時代は貧乏で、クソみたいな虫ケラみたいなガキで、きっと寿司の存在なんか知らなかったでしょう。多分、遊ぶヒマなんかほとんどなく、小銭を稼いで家計を助けていた。
それでも好きだったマンガをやらせてもらえて、師匠のマンガ家に寿司を食わしてもらって、その旨さにカンゲキして、それでも吉沢やすみ少年は、稼いだアシスタント料で自分で寿司を食わずに、買った寿司を、苦労をかけた母ちゃんに持ってって行ったんじゃないかな。「母ちゃん、食えよ。寿司だよ、旨いよ」って。そんな事を思わせるに足るような暖かさが、彼の作品には存在するんです。

マンガの中で、ヒロシが遊び呆けてるのも、寿司をバクバク食べているのも、そう考えると合点がいくんだよね。作者吉沢やすみはヒロシに、少年時代の自分ができなかったことを、思う存分やらせてあげてるんだと。それは取りもなおさず、少年時代の自分への御褒美なんじゃないかな、と。

そして高度成長期を過ぎ、日本は金持ちになった現在、『ど根性ガエル』はソルマックのCMで復活しています。ヒロシと京子ちゃんの結婚披露宴なんかもやってるね。みんなの前には、ものすごい御馳走が並んでて、やっぱりガツガツ食べています。そこには、宝寿司の寿司は並んでいないようですけど。


散文(批評随筆小説等) ヒロシと寿司と母ちゃんと(吉沢やすみ『ど根性ガエル』) Copyright 角田寿星 2006-01-03 23:42:19
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