春の人工衛星
ZUZU

質に入れたはずの女房が
ある日ひょっこり帰ってきた
質流れでもしたのだろうか
おかえりというと
ただいまもいわず
お茶だけ
のひとことで
台所に立ちお湯をわかしはじめる
そのうしろすがたは
まぎれもなく
美術学校のかえりに
はじめて
僕のアパートをたずねてくれたときの
かたくなな少女のままだった
あの日
トイレも共同の六畳部屋には
うすい西陽がさしこんでいて
黒い髪を耳のうしろにかきあげる
きみのほほのうぶげは
たしかに金色だった
僕の書きかけの小説を
きみは読んでくれた
とてもほめてくれた
あんまりほめられたので
つづきを思いつけなくなってしまった
しかたがないので
ふたりでつづきを
演じてみることにした
合間合間に飲むお茶だけが
ぼくらのこころを溶かしひとつにした
だけど僕のほんとうに書きたかったこととは
ずいぶん離れてしまった
それを言えなかった
言えばいいのに
どうしても言えなかった
だから僕は旅に出ようと計画した
内臓を売るか
女房を売るかのどちらかだった
僕は内臓を惜しんだ
それで女房を質に入れ
日付変更線から最終便に飛び乗ったのだ
世界の果てには
ほんとうの自分の影が歩いている
酒場でビリヤードをうつ
僕の影は僕よりもやせていた
僕の影は僕よりもおびえていた
そのとき僕は
僕がほんとうに失ってしまったものを
知った
死よりもはげしい痛みとして
知った
縁側の窓をあけると
ななめ向かいの小学校の校庭から
桜の花びらが迷い込んできた
お茶の香りが空に溶けてゆく
使い捨ての人工衛星が
ひらりと光を投げて
ゆきすぎて消えてしまう
うなだれた春の影のなかを








自由詩 春の人工衛星 Copyright ZUZU 2005-12-17 10:47:03
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