詩人の墓前に祈る 〜北鎌倉・東慶寺にて〜 
服部 剛

     今夜も僕はこれから詩を書くだろう。
     この世界の何処かで初冬の密かな風に震えて
     独り詩情を求めて街灯の灯る夜の小道を歩く
     名も無き「もう一人の自分」の為に。 

     いつか詩集のページの中で出逢う、
     未来に住むかけがえのないあなたと 
     今夜ランプの下で机に向かい詩作する僕との間に
     時を越えて、風は吹きぬけてゆく 






 午後二時過ぎ、JR横須賀線・北鎌倉駅を降りると、偶然にも小
学生の息子を迎えに来た母親の詩友・Rさんと会う。詩集制作の
打ち合わせの日に会うとは奇遇である。きっと目には見えない磁
場のようなものがあるのだろう。

 三分ほど歩いて東慶寺の境内に入ると、日の光に照らされた石
畳の道の上には午後の太陽が輝き、僕は境内の奥にある杉木立の
山へと入って行き、故・小林秀雄氏や高見順氏等の墓前にしゃが
み、両手を合わせ、尊敬の念を伝えながら、僕の第一詩集の出版
への想いを祈った。 

 故・高見順氏の墓前から少し離れた所に並ぶ背もたれの無い椅
子に腰を下ろし、鞄から「高見順詩集」を取り出し、項を開く。

  そこだけ
  葉が揺れている
  風は無く
  風で揺れるのと揺れ方が違う
  葉陰に鳥がとまっているのか
  なんということはないその枝葉の揺れが
  枝葉末節の揺れが
  はなはだしく私の心を惹く

  (「枝葉末節の揺れ」)

 読んでいた詩集の項から顔を上げると、視線の先には、細い枝先
の葉が、微かに揺れていた。

  うつらうつらとしたひとときに
  楽しい眺めの夢に見た
  見渡すかぎりのすべての草木が
  一本について必ずひとつ宛の花を持っている
  すべての人に必ずひとつの喜びがあるように

  (「一草一花」)

 この短い詩の言葉にふれて、僕の胸に内に一輪の幸福の花が開く
のを感じ、墓石の下に眠る詩人の魂に、言葉にならない感謝の念を
伝えた。そして、詩を愛する者の一人として、詩を書く者の一人と
して、高見順氏がこの世に書き遺した詩の言葉のように、全ての人
の胸の内に一輪の花が咲くことを願う気持が湧いて来るのを感じて
いた。

 「高見順詩集」を閉じて、打ち合わせでT氏に渡す僕の第一詩集
に載せる詩の数編をホチキスで束ねて鞄の中にしまい、もう一度墓
前に手を合わせてから階段を降り、北鎌倉駅前で三時に待ち合わせ
ているT氏を迎えに行った。

 T氏を東慶寺の境内や文人等のお墓に案内すると、T氏も墓前で静
かに合掌していた。その背中の後ろに立つ僕もまた、再び合掌を重
ねた。
 T氏は「いつも東京にいると、こういう緑に囲まれた環境ではな
いので落ち着きます。鎌倉はいいところですねぇ・・・」と言った。

 東慶寺の敷地内にある風情のある喫茶店「吉野」で僕の詩集につ
いて話し合った後は、一九五〇年代の「現代詩手帖」や「詩学」を
鞄から取り出して見せるとT氏は薄く赤茶けた項を開き、目次を見
ながら「錚々そうそうたる詩人の名前だなぁ・・・」と静かに五十年前の詩
誌を凝視していた。「この戦後の時代に比べると・・・今の時代の
詩人は背骨のあるテーマを持つことが難しいと感じます。」と僕は
現代の詩の世界について感じている本音を伝えると、Tさんは「な
るほど・・・」と何度か頷いた。 

 約一時間話し、お互いのティーカップが空となり、T氏は「そろ
そろ戻らねば・・・」というので店の出口まで見送り「詩集・・・
よろしくお願いします・・・!」と頭を下げ、互いに笑顔で別れた。

 店の席に戻り一人になった僕は「高見順詩集」や現代の詩人の中
で尊敬している上手宰氏の詩集「夢の続き」をテーブルの上に置き、
さきほどT氏に見せた約五十年前の「詩学」の中でT氏が好きだと言
っていた故・黒田三郎氏の詩を読んだ。

  それを僕は夢に見たのか
  それとも五階の窓にもたれて見下ろしていたのか
 
  流れてゆく無数の黒い小さな蝙蝠傘こうもりがさ
  それを押し流すのは
  目に見えぬ無言の意志か
  それとも風か

  一滴の雨水が髪の間から流れ落ち
  僕の頬を濡らす
  ああ
  夢を見ているのでもなければ
  五階の窓にもたれているのでもない
  黒い大きな蝙蝠傘をさし
  雨に濡れて
  僕はたそがれ近い歩道を歩いている
  雑踏する群衆

  (「白い巨大な」より抜粋)

 五十年前の薄く赤茶けた項に載せられた一編の詩の中で、雑踏の
中を独り歩く詩人の呟きは時を越えて、二〇〇五年の北鎌倉の喫茶
店の中で読書をする僕の胸に届く・・詩人とは、時を越えて一人の
読者への旅路を歩む人のことをいうのだろう・・・。

 そして、黒田三郎という孤独な詩人の呟きを想うと、もう何年も
前に鎌倉文学館に行った時に飾られていた故・堀口大學氏直筆の色
紙に書かれていた

  「 詩人とは 独りで じっと いることだ」

という言葉が思い出される。昨日僕が大阪の友人に送ったメールに
「独りでいる時間が、その詩人を決める」と書いたのも、その言葉
が深く胸に残っているからだろう。そして、T氏がすでに帰った後
の、僕の他に客の無い閉店前の喫茶店で、時々紅茶を口にしながら
詩を読む独りの時間の尊さを感じていた。

 約五十年前の詩学に載っている故・黒田三郎氏の詩の下には、本
人の詩について思うことが語られており、

  詩をかくということには、やはり何か心を慰めるものが
  あるかもしれない〜詩というものはそれをよむひとを
  (人間の・自分自身の)卑小さから解放するものだと
  僕は思う。* 

 詩学の項を閉じてテーブルの上にそっと置いた僕は、店のガラス
の壁の外の日も暮れかけた閉店時刻の午後五時前に一編の詩を書い
た。自らの寂しさを慰める為に、そしてあわよくば、この一編の詩
に封じこめた慰めの言葉が時を越える旅路の果てに、一人の読者の
胸に届く日が来ることを切に願い、祈りながら。 

 レポート用紙に詩の草稿を終えた僕は、テーブルの上に置いた様
々な詩人のこの世での想いが封じ込められた詩集と詩誌を鞄の中に
しまい、伝票を手にレジへと歩いた。店員の二人の中年おばちゃん
に「今日は詩人・文人の方々のお墓参りに来ました。僕も本を作る
んですけど、ご利益あるかなぁ・・?」と笑って話すと、ふたりの
おばちゃんも声を揃えて笑った。

 店の外に出て、すでに木の柵が置かれて締められた境内の門の向
こうの暗くなった山の中で眠る、詩人・文人の魂に合掌し、日が暮
れた夜空を仰ぐと、山の上にはふくらみかけた三日月が浮かび、一番
星の金星が、力強い光を独り立つ僕の胸に届けた。その時・・・故
・高見順氏の魂はかつてこの世で生きた時間の中で、ふるえるほど
の人生への想いを、一編の詩や小説に封じこめたということが、日
が暮れた杉木立の山の奥から夜風に運ばれる音の無い声が、聞こえ
た気がした。
 

  
    *文中の詩と文は
    「高見順詩集」(弥生書房)
    「詩学・現代詩読本 1957年・臨時増刊号」(詩学社)
     より引用させていただきました。 









散文(批評随筆小説等) 詩人の墓前に祈る 〜北鎌倉・東慶寺にて〜  Copyright 服部 剛 2005-11-20 12:13:32
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