ボージョレ・ヌーボー
恋月 ぴの

  テーブルの上にはワイングラスをふたつ 仕事の帰りがけに買ってきた今年収穫された葡萄で作られたワイン ボージョレ・ヌーボーの栓を開けよう 僕の他にこの部屋には誰でも居ない 君が頬杖を突いて物思いにふけったり 誰かに緑色のインクで手紙を書いたり 僕の小さな幸運を自分の事のように喜んでくれた そして時には口を尖らせ不機嫌そうな顔をして 喜びも悲しみもともに分かち合い 僕の向い側に何時も座っていた君の為に 良く磨き上げたワイングラスを用意したから まず君のグラスに注ぐ


  ボージョレ地区のなだらかな丘陵地帯は葡萄の木で埋め尽くされている 不思議な神の血となる ひとふさの葡萄 コルクの栓を抜くとボージョレ・ヌーボーの生きた香りが漂い 静かなこの部屋に 君の謎めいた甘い微笑み 掻き揚げた髪の齎す陶酔と幻想へ誘う唇から覗く舌先は 不思議な神の血にきっと震えるだろうか 僕のグラスにも注ぐ グラスの中で揺れる赤い液体 口に含めば拡がる 太陽と熱風の記憶 それは 向い側の席でグラスを捧げ 大げさな身振り手振りで今日の出来事を語る君の記憶 甘く切なく そして満たされていたひとときの夢


  星屑になった君の愛に満ちた涙を
  僕は夜空から掬い上げる事を躊躇った
  君の将来を案ずる心と
  今の幸せにしがみ付こうとする心との
  葛藤に切り刻まれた僕の魂は
  愛する君と別れる事を選び
  ひとり絶望の道を歩む
  そして 君の面影を胸に抱き
  グラスに注ぐ赤い液体
 

  ディオニュソス神の悪戯なのか 酩酊した君への想いを引き摺るようにして ブルーチーズを齧りながら飲む 君のグラスの中で静かに時の過ぎ行く様を眺めている 不思議な神の血 ワインはグラス一杯に注いではいけないと何時も君に窘められていたから 慎ましいほどにグラスへ注いだ この部屋はエアコンディショナーから吹き出される 乾燥した暖かさに満たされていて 君の居ない虚しさを次第次第に想い出の片隅へ押しやろうとする 日付の変わる前にはボトルの総てを飲み干そう 明日になれば陽はまたボージョレ地区の葡萄畑に降り注ぎ 収穫の終わった喜びに満たされた村々に木霊する 牛追いの声が聞こえる


自由詩 ボージョレ・ヌーボー Copyright 恋月 ぴの 2005-11-17 11:31:36
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