セカチューのリアル<村上春樹/セカチュー/となり町戦争>とランボーの埋葬:切り貼り
がらんどう


「鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックスシーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ」
(村上春樹『風の歌を聴け』より )

『世界の中心で愛をさけぶ』の時代設定は、原作においては「1992年」、映画・ドラマにおいては「1986年」である。この86年から92年という時代(それも舞台となっているのは地方都市である)を思い出した場合、セカチューはある重要なものを落としていることに気付くはずである。セカチュー映画版・ドラマ版では「ラジオ番組」と「ウォークマン」が物語の重要な小道具として用いられている。だが、それはあくまでも「ラジオ」であり「テレビ」ではないのである。だが、86年〜92年に若者であった人は思い出すべきだ。あの時代の我々がどれほど「テレビ」を見ていたかを。「テレビ」が作り出したブームにどれほど影響されていたかを。86年のキーワードは「地上げ・グルメ・おニャン子」で、『男女7人夏物語』や『トップガン』が流行り、チャレンジャー号が爆発し、マルコス政権が倒れ、岡田有希子が自殺し、チェルノブイリが事故を起こし、ビートたけしが講談社を襲撃した、そんな年だった。(そして、89年には「昭和天皇の死」と「ベルリンの壁崩壊」、91年には「湾岸戦争」。なんだ、やっぱり「テレビ」じゃないか。)

さて、この「ラジオ」(番組へのハガキの投稿)という小道具が印象的に用いられている作品を我々は知っているはずだ。そう、村上春樹の『風の歌を聴け』である。村上の初期作品において見られる「すべては失われてしまった。その失われた世界に僕たちは生きている」とでもいうかのような「雰囲気」をセカチューもまた継承している。だから、セカチューを「失う」物語とするのは誤読であろう、それは「すでに失っている」物語なのである。そしてそれゆえに、失った「と考える」ものへの「回想」であるゆえに、過去は美化されるのだ。もちろん『風の歌を聴け』の舞台となっているのは「1970年」である。

「1970年」、それは「大阪万博」の年である(同時に「よど号事件」の年であり「三島の割腹自殺」の年でもある)。その年にテレビでは「時間ですよ」や「細うで繁盛記」「ハレンチ学園」が流れ、「走れコウタロー」や「戦争を知らない子供たち」といった歌がヒットしていた。だが、村上の小説はそのような時代を描き出さない。背景に描かれるのは「ラジオ・洋楽・小説」である。この村上の同時代との乖離は、浦沢直樹の漫画『20世紀少年』と比較した場合により顕著となる。『20世紀少年』の一要素として読み取れるのは「テレビ(に代表される大衆文化)に規定された子供っぽい想像力」であるが、「70年」を大人として迎えた村上の主人公はそのような「子供っぽさ」をすでに欠いてしてしまっている─子供は「回想」なんてしない─。「70年」の少年にとっての「リアル」とは、同時に「テレビ」や「漫画」のなかに提示されているそれであった(「我々はあしたのジョーである!」だなんて村上の主人公はけして言わない)。むしろ、それは現実よりも「リアル」なものであった─「視覚」が我々の「リアル」をすでに組み替えていたのだ。つまり、村上とセカチューが共に欠いている「テレビ」という要素は、「失った世界の美化」のためにその排除が要請されているのである。つまりそれは「あまりにも文学的すぎる」のだ。だからこそ、それはかえって「文学のカリカチュア」と化してしまうのだ。「視覚」という「リアル」への反発、ゆえに『風の歌を「聴け」』であり「カセットテープ」なのである。彼らが「失った」と考える「リアル」とは「聴覚的」なものなのである。

だが「テレビ」と同様に忘れてはいけないこと、それは「1986年」に『ドラゴンクエスト』が発売され、それから「テレビ」は「ゲーム」にその座を譲るようになったことである。その「テレビからゲームへの移行」と「リアルでないのがリアル」という感覚は密接に関係している。それは「プログラムによって捏造された視覚」つまり「目に映るものすらその根拠を持たない」という感覚である。その感覚は我々に「テレビですらリアルでない」という認識を与え「9・11」・・・うんぬん。そういうのは語られすぎるくらい語られたので、もう繰り返すことはしない。(ひとつだけ付け加えるならば、テロリズムはスペクタクルによって自らの力を最大化させる。視覚メディアと密接に結びついている点で、テロはまさに20世紀的である。そしてハート=ネグリが批判するように、それはデモなどの非暴力直接行動においても同様である。それは自らを「被害者」としてメディアに表出させることで力を得る。)

そしてまた、86年〜92年といえば、オタクの時代でもある。セカチューの世界にはヤンキーもオタクもいないというのは、あの時代の地方都市のリアリティとしては明らかな嘘である。1983年には「オタク」という語が中森明夫「おたくの研究」において始めてメディアにのせられるのである。(そして宮崎事件が1989年。その事件にコミットしていくことになる大塚英志が『少女民俗学』を書いたのも1989年である。同年には中沢新一の『チベットのモーツァルト』も出ている。つまり、そこには「ニューアカ」という文脈もまたあったのである。)

奇しくも神戸で博覧会が開かれた1981年に出版された『なんとなくクリスタル』は脚注のほうが本体であるという当時としてはあまりにも先鋭的な手法でマスカルチャーに規定された我々の生活を描いたわけであるが、これにしても意外にテレビそれ自体の影は薄い。テレビ的であると言うよりは「カタログ的」「雑誌的」である。(ちなみにこの年最も売れた本は『窓際のトットちゃん』で、『FOCUS』もこの年に創刊されている。)
これが、1976年の『限りなく透明に近いブルー』では更に希薄となる。村上龍の描くセックスとドラッグの76年はあまりにもウソっぽい。これを世代・地域や趣味・嗜好などの断絶として簡単に片づけてもいいものかどうか。つまり、その「虚構の」1976年は何のために提示されたのかということを考える必用があるのだ。

この「風俗小説」的なものにして「テレビを語らない」というモードはもっと着目されていいような気がするのだ。ポップカルチャーから積極的に距離を取ろうとする(大文字の)「文学」のもつ自意識の問題である。ここではことさらに、その「リアリティーの欠如」を批判するわけではない。むしろ、その「リアリティーの欠如」こそが「文学の核」なのではないか、というわけである。

文学の本質は「嘘」であるとオスカー・ワイルドは「虚言術の堕落」と題されたエッセイの中で語っている。嘘をつくことと詩を作ることはともに芸術であり、我々と関係のないものだけが美しいと。ワイルドは「芸術が人生を写すのではなく、人生が芸術を写す」のだとさえ語る。

「あの人は頭の中で考えるうちに、他人になれるんだ。他の存在に。(・・・) それも彼女の力のうちなんだ。それこそが、フィクションに最も重要なことではないのかな? 読者を自分の中から連れ出して別の生に誘いこむということ」
(J・M・クッツェー 『エリザベス・コステロ』より)

いかにリアルに絡め取られずに、嘘をつき通せるか、それが重要なのだ。
たとえば、文学の中に「作者のリアルな声」を読み取り評価する向きがあるが、とりわけ荒々しい未熟さに狂気を読み取るような、「ランボー病」「呪われた詩人病」とでもいうものがある。

「そして先人に倣って自らも「呪われた詩人」になることを夢見る。しかし、差し当たってリセに通う平々凡々たる生徒に過ぎない私は、呪いなどとは全く無縁で、常日頃、救いようのない自分の凡庸さを意識すると同時に、不満を漏らす権利は自分にはないのだとも感じている。なにせ暖かい寝床で眠り、腹一杯食うことのできる身分なのだから」
(アンリ・トロワイヤ『サトラップの息子』より )

だが、未熟であることは、未熟であることそれ自体しか意味しない。若さ故にある傾向の作品を書き得るというのは、若さ自身の思い上がりであり、アイデンティティを所与のもの・ひとつの起源として捉え疑うことのない「本質主義」的態度と言えよう。「未熟さ故に真に迫り心を打つ」というのは「ブスは心がキレイ」という類の乱暴な誤謬であるのだ。若者は自分を若者として意識しがちなのである。若者という特権者として。彼らが自らを「大人の未完成品」たる「子供」として意識することはまれである。若者である書き手が、自らの「若さ故の狂気」なるものにより動かされて何かを書くとして、それはその実「若者」という、「狂気」という、エクリチュールに回収されているに過ぎない。それはおおよそエクリチュールを自ら選択するという(書くことにおいて我々がかろうじて選択可能な)自由、積極的な身振りすら欠いている。そうして表現される「狂気」に「現前」を、「声」を、読み取る態度は、ただリアルの虚構への優越という階級性を再確認し反復させるだけであるのだ。

ふたたび言おう。我々はもはや「狂気」など必用としてはいない。
ランボーを、中也を、正しく埋葬すべきなのである。


「しかし、お話はすべて、かつては本当だったのだ。そして戦争も宮廷生活も、歴史上の出来事はすべて、かつて本当に起こったのだ。お話はすべて、かつては腹の底からの実感だったのだ。(・・・)しかし、世界が終わりを迎えようとするときには、もはや現実はなくなり、あるのはお話だけになる。お話だけが、われわれに残されたものになる。お話がわれわれの唯一の現実となる。われわれはシェルターの中で腰をおろし、目に見えないシャハリヤールにむかいシェヘラザードよろしくお話をしつづけることになる。それがいつまでも続くことを期待しつつ・・・」
(グレアム・スウィフト『ウォーターランド』より)


散文(批評随筆小説等) セカチューのリアル<村上春樹/セカチュー/となり町戦争>とランボーの埋葬:切り貼り Copyright がらんどう 2005-10-15 15:28:39
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