我も行人秋のくれ
藤原 実


此道や行人なしに秋の暮    芭蕉


門を出れば我も行人秋のくれ  蕪村





『俳句の世界』の著者である小西甚一さんが、その序文で師範学校の教師だった時代のエピソードにふれられているのですが、小西さんが講義のなかで『奥の細道』の「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」の一節が李白の「春夜宴諸従弟桃李園序」の『夫天地ハ万物ノ逆旅光陰ハ百代ノ過客』に由来する、と言ったところ、ひとりの学生が「先生!芭蕉ほどの俳人が李白の文章を横取りするとは、けしからん事ではありませんか」と言ったとか --------。


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夏草や兵どもが夢の跡    芭蕉




尾形仂の『座の文学』は、たいへん読み応えのある本で、この本を読んで目をあらわれる思いをしたのは一度や二度ではありません。


芭蕉の『奥の細道』の一節「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと・・・・・・」が、杜甫の『春望』という詩の「国破レテ山河在リ、城春ニシテ草木深シ」を引用したものであることは、どの解説書にも書いてあるんですが、尾形さんは杜甫の詩の「草木深シ」が芭蕉にあっては「草青みたり」と書き換えられているところに注目しました。現在、俳句において「草青む」というのが春の季語になっているように、「草青みたり」というのは夏草の形容としては、ちょっとズレている。また杜甫の原詩は案禄山の乱のただなかで現況をよんだもので、けっして「夏草や・・・・・・」の句のような回顧的な光景ではないそうです。そこで尾形さんは湖伯雨というひとの『望准』という詩の「白骨城辺草自ラ青シ(白骨の散り敷いている城辺に草が青い)」という一節をひっぱってくる。





芭蕉は、杜甫の「城春ニシテ草木深シ」の詩句を湖伯雨の詩句とないまぜにすることによって「草青みたり」と改め、そうすることによって全体を古戦場回顧の情景に変えている、その文学的嘘のおもしろさ、古詩の世界の転換によって複雑な情感をかもしている、そのウイットに注目したい。
   (尾形仂『座の文学----連衆心と俳諧の成立』<講談社学術文庫>)




西脇順三郎が『(芭蕉というひとは)とにかく和歌と漢詩の中に生きようとした人である』(「はせをの芸術」。『雑談の夜明け』<講談社学術文庫>より)と書いていた意味が尾形さんの本を読んでぼくにもよくわかったのでした。芭蕉の世界とは、このような「時を隔てた歴史的共同体」と同時代の「座」という連衆心を通わせる「共時的共同体」をからみあわせることによって、じぶんたちの日常を超えた普遍的なココロをうたいあげようとしたものだったと考えられるのです。そしてこのことは俳諧にかぎったことでなく、かつての日本文学の特徴であり、ふたつの共同体のタテヨコの糸の結び目に本歌取りの技法なども確立されたということです。
こういった共同体意識は近代個人主義思想の洗礼を受けた正岡子規などによって否定されてしまったわけですが、惜しいことだなと思います。


子規によって発句は俳諧から切り離されて、個人の心情をうたいあげる「俳句」という第一芸術に昇格したわけですけど、その俳句を作る場合に避けられない問題として「類句」があります。五七五の組み合わせは理論的には無限に近いそうですが、人間の考えることですから、どうしても似た発想の句がでてきてしまいます。そして、類句のモンダイといえば、かならずといっていいほど引用されるのが、中村草田男の次の一句です。





降る雪や明治は遠くなりにけり




この句、教科書などで一度は目にしたことがあると思います。草田男の名句として、あまりにも有名です。ところが、この名句にも志賀芥子(かいし)というひとの





獺祭忌(だっさいき)明治は遠くなりにけり    




という先行句がありました。
「獺祭忌」は子規の忌日(九月十九日)です。子規は慶応三年(1867)に生まれて、明治三十五年(1902)に亡くなっているので、まあ、明治という時代とともに生まれ、育ち、没したようなひとですから、「明治は遠くなりにけり」というのは、上手いなあ、と思います。が、やはり草田男の句にくらべるとだいぶ見劣りしてしまいます。
「降る雪や」の句については草田男の自句自解があって、句が成立するまでの推敲過程まで明かされているのですが、「獺祭忌」の句についてはまったく触れず、無視しています。草田男としては句の出来に相当の自信があったんでしょうね。今日「獺祭忌」の句も作者の志賀芥子もまったく忘れられた存在になっているので、世間も「降る雪や」の句は草田男のオリジナルな名句であると認めたということなんでしょう。


この場合はすぐれた作品の方が残ったわけですが、あるいは草田男がすでに名をなした俳人であるのに対して、志賀芥子の方は無名の一投稿少年にすぎなかったという立場の違いがこういう結果になったのかもしれないとも思うのです。これが立場が逆だったら、つまり芥子の方が高名な俳人で、草田男が無名の投稿俳人だったら・・・・・・、という場合です。おそらく「降る雪や」の句は投稿されてきた時点で選者によって、芥子の句の類句であるとして黙殺されたかもしれません。その場合には「降る雪や」という名句はその存在さえ、だれにも知られず闇に消えるわけです。そしてその場合、「獺祭忌」という平凡な句がオリジナルな輝きとかいうものを放って、今日まで愛吟される------という事態に、はたしてなるんでしょうか?


ぼくは十代のころに少し詩を書いて、それからおととし詩作を再開するまで、二十年近く詩から離れてしまっていたために知らなかったことなのですが、最近読んだ『詩とは何か』(嶋岡晨著/新潮選書)によると現代詩の世界でも山本太郎の詩をめぐって盗作さわぎがあったそうですね。山本の初期作品に彼の友人の作品からの剽窃とみられる部分がまじっているのではないかと、その友人から告発されたそうです。山本太郎は明快な反論もできないまま、著作集の刊行が中止されたりしたそうです。ぼくは、高校時代に投稿していた受験雑誌の文芸欄の選者が山本太郎だったこともあり、彼の詩や評論を読んでいて、詩作を再開したときにも山本の詩を読み返したくなって探したのですが、現代詩文庫などもなぜか山本の巻だけが書店の棚から抜け落ちていたりして、読むことができなかったのは、あれはひょっとして偶然ではなかったのか?


嶋岡さんは同書のなかで『詩の部分的な類同と、その全体的な(その詩人ならではの)魅力については、同列でない評価をすべきだとわたしは思う』と書いているのですが、ぼくも同じ考えです。山本の詩には彼ならではの魅力が溢れていたと今も思うのです。


あまりに性急なオリジナリティの主張は、詩にとってたいせつな何かを見落としてしまうことにはなりはしないでしょうか?
もちろん知的所有権などということがうるさく言われる時代であり、まさか大いに盗作すべきだ、とはぼくも考えていませんが、しかし、法やモラルのモンダイに即、議論が流れていってしまうのはなんだか違うような気がします。


オリジナリティがイコール芸術性の基準であるような価値観が、じつはいつ崩壊してもおかしくないものであることは、べつにベンヤミンやボードリヤールをひきあいにださなくとも、ぼくたちが日々感じていることではないか、と思ったりもするのです。




          (初出:1999.10 @ニフティ<現代詩フォーラム>

**参考リンク
高柳重信『「書き」つつ「見る」行為』(http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/jyusintext/jyuusinkakimiru.html)。俳人から見た草田男と介子の句の違いについて。


散文(批評随筆小説等) 我も行人秋のくれ Copyright 藤原 実 2005-09-22 22:01:30
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