つれづれ4
いとう



さてさて。
自己内包について書こうと思っていたら先に佐々宝砂さんに書かれてしまった(笑)。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=4701
って、前フリにもなりゃしない(笑)。困ったもんだ。もう少し待ってくださいよう(笑)。
しょうがないので、別の角度から。


たとえば「今日は寒い」と言う人がいて、
同時に「今日は寒くない」と言う人がいて、
それぞれがそれぞれに言ってるだけなら問題はないけれど、
「今日は寒いなんて言う人の気がしれない」なんて言うと、
それは暴言だったりする(と思う)。
あるいは今日は寒くないことを説明するために
「今日は寒いなんて吹聴する奴らがいるが〜」なんて
寒いと思っている人を馬鹿にするような口調で始めると、
今日は寒いと思っている人は不快な気分になる。
少なくとも俺は不快になる(笑)。
内容がどんなに理路整然としてわかりやすく納得するものであっても、不快感は残る。
(それはもう、人間性の問題かもしれない)
それらはすべてコミュニケーションを拒否する言葉たちだと思う。

「今日は寒いねぇ」
「俺は全然寒くないよ」
「そうなの? なんで? 俺は寒いよ」
「寒がりなんじゃねーの?」
「んなことないよー」

なんてのがまっとうなコミュニケーションの始まりだと思っている。
お互いの寒さの度合いなんてわかるわけがない。
でもわからなくても、わからないからこそ、コミュニケーションが始まっていく。
それはお互いの寒さの度合いをわかろうとする過程ではなく、
お互いの感覚の違いを認め合う過程だ。
認め合うことから共有感や連帯感が生まれる。
自分とどれだけ異なっていても、意見がまるっきり正反対でも、
コミュニケーションによってそういうものは生まれるのだ。
最初から馬鹿にして切って捨てるような口調では、
そんなものどこからも生まれないと思っている。
そしてもちろんコミュニケ−ションを取りたくないからといって
そういう口調で言ったり書いたりしてもいいというものでもない。
そういう意味において相対主義、あるいはダブルスタンダードというものは、
そこで判断を停止させるためにあるのではなく、
そこから豊穣な関係性を築くためにあると思っている。


蛇足だけど、
上記の文章は佐々宝砂さんの一連の文章を批判するものではまったくありません。
彼女の発言にはとても好感を持っています。
投票欄にも書いたけど、
少なくとも他人を不快にさせようとする意志はまったく感じられない。
彼女からもっといろいろな見解が聞きたいくらい。


「オマエモナー」については、佐々宝砂さんとは受け取り方が異なっている。
(違ってたらすみません)
俺は「あなたの言っていることはあなた自身にもあてはまりますよ」というニュアンスで。
いわゆる「バカって言うヤツがバカなんだぜー」という揶揄だ(笑)。
ま、2ちゃんねら〜ではないので正確な使い方は知りません。

そう。自己内包の話である。ようやく本題だ(笑)。
すべての意見、提言には、自己内包が伴うと思っている。
昨日や今日の俺の発言しかり。これだって、ひとつのスタンダードに過ぎない。
スタンダードの多重性について語ること自体がひとつのスタンダードでしかない。
合わせ鏡のように、あるいは波紋のように重なり合うそれは、
意見そのものを食い潰す可能性を秘めている。

自己内包に囚われると何も発言できなくなる。
かといって自己内包を無視すれば意見そのものの信憑性が危うくなる。

あー。なんかイヤになってきた(笑)。
考えてると袋小路にはまりそうなので考えないことにする。

別の角度から見てみよう。
ジョーカーが無限に存在するカードゲームのようなものかもしれない。
このオールマイティのカードを相手に切ったが最後、
延々とジョーカーが出続ける。ゲームが成立しなくなる。
「オマエモナー」の大合唱になる。

いずれにせよ、固執も無視もよくないということを、経験的に知っている。
やっぱ詩人は詩を書いていればいいのかもしれない(笑)。
余計なことを書いていると、足下を掬われる。
世の中には他人の足下を掬うことに意義を感じる人もいて、
そういう人に粘着気味に張り付かれると
怖くて何も言えない。何もできない。
などと言っていてもしょうがないのでやりたいことはやる。
ストレスは溜まる。
今年できた円形脱毛は、半年以上経ってもまだ治らない。
安定剤もときどき服用する。

などと愚痴をこぼしてもしょうがない。
それが愚痴に値するかどうかもわからない。
その印象はナーバスな自分がナーバスなゆえに感じるものかもしれない。
相手はまったくそんなつもりがなかったり、
そのスタンスが相手のスタンダードなのかもしれない。
そしてその愚痴(のようなもの?)を相手に押し付けることはできない。
それは自己内包を伴う。
ちなみに私はひとつの基準は別の基準を排斥するものではないと思っている。
基準とは自己を維持するためにあるもの、
つまり「私はあなたではない」ことを認識するための手段であって、
それは排斥とはまた別のものだ。
排斥とは「私ではないあなたはいらない」と表明することだ。
「私ではないあなたがいる」ことを認める最初の一歩がダブルスタンダードであり、
相手のスタンダードが不快なら、見なければいいだけだ。
相手が(さまざまな意味での)関係性を求めてこない限り。

俺自身は少なくとも、意識的にだろうと無意識的にだろうと、
他者を不快にさせるような口調を用いる人とは
なるべくコミュニケーションを取りたくないと思っている。
(でもそれはもちろん排斥ではない)
と、自分のスタンダードを表明しておしまい。

こんな愚痴だらけの文章たちにつきあっていただいてありがとうございます。





散文(批評随筆小説等) つれづれ4 Copyright いとう 2003-12-25 18:30:05
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