詩作における女性優位についての雑感
恋月 ぴの
相変わらずって言うとアレだけど、女性の勢い益々って感じがします。フォーラムに投稿されるほとんどの詩をYockは読まさせていただいておりますが、この詩は良いなと心の琴線に触れるのは圧倒的に女性が書いた詩です。今後も同様な状況が続くと思いますが、どうして相変わらず女性優位なのかについて書いてみたいと思います。
尚、既に語りつくされたテーマですので、「モチーフとの関わり方」と言う視点に絞って考察してみたいと思います。
詩に限らずアートとモチーフは相関関係にあります。つまり、「何かに心を動かされ、それを自分なりに表現する」。これがアートの基本だと思います。
言い換えれば?目に見えるもの?を?目にみえぬフィルター?を通して表現したものが一般的にアートと言えるでしょう。さて、ここから本題に入ってくるのですが、現代詩におけるモチーフとの関わり方が浮かび上がってきます。
現代詩を狭義の意味で捉えれば「現代詩とは?目にみえぬもの?を?目に見えるもの?を媒体して表現したもの」ではないでしょうか。つまりはじめに花ありきでは無い事が現代詩を現代詩と言わしめる要素だと思います。(この事が現代詩を難解と思わせる要因でもあります。また、?目に見えぬもの?を?目に見えぬもの?を媒体として表現した詩も勿論存在しますが、ここではちょっと置いておきます)。
では、?媒体のしての目に見えるもの?とは何かと問われれば、現代の都市空間において花鳥風月は、最早対象とは成り得ず、それは?肉体そのものの存在?だけではないでしょうか。(都市空間においては自立した存在としての花鳥風月を詩に関わるものが日常的に認識する事は不可能に近いでしょう)
この事が「女性の詩が正に生き生きとして心の琴線に触れる理由」だと考えます。肉体なるものを?媒体のしての目に見えるもの?とした場合、観念を拠り所として存在する男性より実存する存在としての女性(受胎→出産という生命に関わる者としての確かな存在)の強みが顕れてくるのです。つまり、?目に見えぬもの?を?確かに存在するものとしての肉体?を媒体として紡ぎ出された詩の前では?目に見えぬもの?を?観念的な存在としての肉体?を媒体として紡ぎ出された男性の詩が抽象的な言葉遊びに成り果てるのは当然の帰結なのです。
まあ、この辺は伊藤比呂美や白石かずこを代表とする女流詩人の作品に対する書評なりで語りつくされている感もあり、何を今更ってお叱りを頂戴しそうな気もしますが、フォーラムの現況を鑑みて再認識させられた次第です。
最後に男性は如何にして詩を書き綴れるのかについて触れてみます。男性の存在そのものが不確かなものであり、また現代の都市空間そのものが男性的な存在感を排除する構造である以上、タチとしての詩作はかなり困難な状況下にあり、どうしてもウケとしての立場に拠った詩作に成らざるを得ないのかなと考えます。主義思想をモチーフとする事が陳腐な極みに成り果てた現状を憂いても虚しいばかりではありますが。