詩についての雑文①
窪ワタル

現代詩フォーラムには、実に様々な詩人が集っている。正直なところ、多すぎて読みきれない。読み逃している詩の中に、とんでもない傑作が有るかも知れないし、その傑作が誰の目にも留まらずに、或いは読み流されているかも知れない。

今回は、私が今注目している二人の詩人の名前を挙げながら、詩というものを考察してみたいとおもう。考察になるかどうかは、かなり怪しいのだけれど、とりあえず筆を進めてみよう。

尚、「批評」というわけではないので、作品の引用は一切行わない。気になった読者諸氏は、御自分でお探しになることをお勧めする。

例によって、反論、抗議、誹謗・中傷の類は自由であるが、無視する旨、予め述べておく。

一人目に挙げたいのは、最果タヒ氏である。彼女の詩は、分からない。分かる詩もあるが、大概の詩は、分からない詩である。これは、筆力がないからではない。最果氏自身が書いておられるように、「分かること」を目指して書かれていないからである。
おもうに、最果氏は「言葉の意味」というものを、まったく信用していないのではないだろうか?言葉の音と、イメージだけで、自己の内側に浸透して行こうとするような、危うい詩である。それは、行過ぎると、ある種の「自虐行為」のようでさえある。
詩を壊そうとすることは、自己と抜き差しならない所まで接近し、対峙しなければならない。これは、大変骨の折れる行為であるが、詩作の根源でもあるとおもう。その意味では、最果タヒ氏は本物であるかも知れない。

二人目は、鈴川夕伽莉氏である。鈴川氏は、私にとって、詩を書くことの切実さを感じさせる詩人である。しかも、分かりやすい。
鈴川氏の詩は、おそらく、他の誰にも書くことが出来ない。詩は、彼女の生活体験や、日々の雑感から出ており、そのことを、素直過ぎる程真っ直ぐに語る、という手法で書かれているのが、大きな特徴であろうとおもう。一般に、詩を読む際、「私」と「詩人」との関係には、注意が必要である。賢明な読者ならば、「私」=「詩人」という読み方は、あまり良い読み方ではないことを御存知であろう。しかし、鈴川氏の詩に関する限り、その注意が働かないということがしばしば起こる。それは、私の読み方の未熟さの問題もあるだろうが、そもそも鈴川氏の詩は「私」と「詩人」が極めて近い関係にあると考えるのが自然ではないかとおもうのである。鈴川氏の詩の最も優れた点は「自分にしか書けないことを誰にでも分かるように書く」という文章の基本がしっかり出来ているということであろう。勿論「誰にでも分かるように書く」とは、必ずしも「誰にでも分かる言葉で書く」ということではないのは、云うまでもないことであるが、文章の基本ということから云えば、筆力を感じさせる詩人だとおもうし、鈴川氏は「伝えたい」と願って詩を書いているのだとおもう。

私がおもうに、両詩人は、対極にいる。最果氏は「分かる」ということを捨てて書かれている為、読者に残るのは、印象だけである。自己と対峙し、それを叩きつけるようである詩行に、イマジネーションを掻き立てられずには居れない。一方、鈴川氏は「分かる」ということ「伝える」ということに重点を置いて書かれている。その、誠実な文体からは、“書かなければならなかった”という切実を感じさせる。
私は、この両詩人の作品のどちらともに、詩があるとおもう。同時に、詩というものの奥行きの広さも感じるのだ。

詩をいうものは、例外なく言葉で出来ているが、言葉の意味や、文法上の繋がりだけに捕らわれない自由によって作られる芸術なのだと、この両詩人は改めて教えてくれる。
昨今、ポエム流行のネット詩の世界にあって、こうした詩を読むと、私は安堵する“詩だなぁ 文芸だなぁ”と。
ポエムが駄目だといっているのではない。ポエムにだって良質なものはある。また、ポエムでなくても、駄目なものは駄目である。

では、そもそも、詩とはなんだろうか?この、自由で、奥行きの広い芸術を、どう言い表せばよいのだろう?

私なりに現時点でおもう所を言葉にすると、こうなった。

『詩とは、人の記憶との心に働きかけようとする行為の足跡である』


散文(批評随筆小説等) 詩についての雑文① Copyright 窪ワタル 2005-08-09 13:24:53
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