ここにいる
朝倉 一

忘れていたわけではなかった
意識の表層に無い、喪失
痛みとその必然
その不可視、恐るべき不可視

ペダルを踏みつづける、失ったものを追いかけて
太腿を襲う痛みを脇腹へ捻じ込みながら
走る深夜の国道、水銀灯の列が終わらない
吐息だけが白く、闇の中に続く情景が冷めて蒼い

忘れていたわけではなかった
握り締めていただけ
油断したから、指の間からこぼれだしてきた
触れていたかった、そばにいてほしかったものを失った
これ以上目を閉じられないほどの痛み
閉じても、閉じてもこぼれだしてくる涙のように
指の間からこぼれだしてきた

ペダルはもう踏めない、水銀灯の列は終わらない
横たわる私と、横たわる自転車が
アスファルトの上で夜空に押し付けられている

忘れていたかったのに、忘れた振りをしてやったのに、
忘れたつもりでいたのに
言葉にならないだけでここにいる
私もここにいる
忘れることも、忘れられることもなく痛みとなった私がここにいる

受話器の向こうに猫の鳴き声
解っているくせに解らない振りの無邪気ないじわる
言葉は足元に落ちてしまって誰にも拾えない
静かな直線が右耳から左耳へ抜けて行く

聞こえていなかったわけでも、見えていなかったわけでもなかった
聴きたくなかった、見たくなかっただけ
ただ拒絶していただけ
まだなくすものがあるから、もうなくしたくないから
ただ拒絶していただけ

受話器の向こうにいとしいものの嗚咽
誰も見ていないのだから、誰のためにも必要ないのに
いつもとおなじ、笑顔のままの嗚咽

聞きたくなかった、見たくなかったのに
聞こえてきた、見えてしまった私がここにいる
アスファルトの上で夜空に押し付けられたまま
誰にも見られることなく、気づかれることもなく
嗚咽する蒼い闇に融ける私がここにいる


自由詩 ここにいる Copyright 朝倉 一 2003-07-06 00:11:37
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