空っぽになる
大覚アキラ

 知り合いのレストランのオーナーシェフから聞いた話。

 そのレストランの常連の客に、貿易関係の会社を経営するBさんという人がいた。Bさんには、もうじき小学校に入学する香奈ちゃんという娘さんがあり、たいそう可愛がっていたそうだ。月に一、二度はそのレストランに家族で夕食を食べにも来ていた。

 ある時、Bさんが三ヵ月ほど店に姿を見せない期間が続いた。どうしたのかな、と気に掛けていた、そんなある日、夕方に店を開けてまもなくBさんがフラっとやってきた。テニスが趣味で、冬でも日焼けした肌と、快活な笑顔がトレードマークだったBさん。だが、久々に店に現われたBさんは、頬がこけ、すっかり憔悴した姿だった。

「どうしたの、Bさん!何かあったんですか?」

「それが……さっぱりわからないんだよ」

「え……?」

「娘が……香奈が、おかしくなっちゃったんだ……」


 Bさんの話はこうだ。

 二月程前に、家族で百貨店に買物に行った。買物を済ませて屋上に上がった。香奈ちゃんが屋上の遊園地で遊びたいとねだったからだ。
 屋上に出ると、香奈ちゃんは大喜びで駆け出した。大人にとっては他愛のない遊具しかないが、あの年頃の子供には楽しくって仕方がないんだなぁ、とBさんは香奈ちゃんの後ろ姿を微笑ましい思いで眺めていた。

 と、何の前触れもなく突然、一陣の突風が屋上を吹き抜けた。Bさんでさえ思わずよろめくほどの風だ。娘が転んだのでは、と見るとちゃんと立っている。ホッとして娘に呼び掛けた。

「すごい風だったねぇ。だいじょぶか、香奈?」

 返事をしない。香奈ちゃんは向こうをむいたままじっと立ち尽くしている。
 奥さんが駆け寄った。

「香奈ちゃん? ねぇ、ちょっと……香奈? 香奈?! あなた、香奈が!」

 香奈ちゃんは“空っぽ”になっていた。呼吸もしているし、命にも別状はない。だが、呼び掛けても反応しないし、何の表情もない。まるで生きている人形だ。

 それからBさん夫妻はあらゆる手を尽くした。国内はもとより、アメリカの病院にも香奈ちゃんを連れて行った。だが、何の手がかりも掴めない。医者は口を揃えて、原因が分からないというだけだ。漢方や気功、最終的には怪しげな新興宗教にも縋った。結果は、何一つ解決には結びつかなかった。

「まるで、あの風が香奈の魂だけを連れていったみたいだ」

 Bさんはポツリと呟いた。


 後日談。
 結局、香奈ちゃんは小学4年生になる年の春、突然元に戻ったそうだ。約3年間の“空っぽ”だった間のことは、ボンヤリとしか記憶していなかったらしい。未だに、その原因は分からないままだが、以来、香奈ちゃんは何事もなかったかのように元気に学校に通っているという。


散文(批評随筆小説等) 空っぽになる Copyright 大覚アキラ 2005-07-15 10:58:38
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