詩と“私”を切り離せ。
大覚アキラ

私小説というものがほぼ死に絶え、小説はエンタテイメントとして書かれ・読まれ・消費されるものになって久しい。それに対して、詩というものは、未だに“私詩”とでも呼ぶべきものが大半を占めているように思える。それが好ましくない状況だとは決して思わない。本来的には、詩というものは多かれ少なかれ“私”的なものだとも思う。作者というフィルターを通過して詩の言葉に変換されているプロセスを考えれば、それは仕方がないことだろう。

ぼくが気に入らないと感じるのは、詩が“私”的であるがゆえに、詩に書き表されている内容をその作者自身に重ね合わせて読まれることが当たり前のようになっているということだ。たとえば、暴力的な性の在り方を詩として書いたとする。では、その作者が、暴力的な性嗜好を持つ人間なのかといえば、決してそうとは限らない。冷静に考えれば当たり前のことだが、詩というものは往々にしてそういう稚拙で誤った読まれ方をされやすい気がしてならない。

ぼくにとって、詩は決して“私”的であるとは限らない。ぼくの詩に登場する一人称としての「ぼく(あるいは、おれ・わたし)」は、必ずしも“私”個人を敷衍したものだとは限らないし、そこで語られていることが“私”個人の考え方や思想と等価であるわけでも、決して、ない。

日記的な呟きや、個人の内面に蓄積した澱のような言葉を紡ぐやり方で生まれる詩があっても、もちろん構わない。そうやって生まれた詩にも素晴らしいものはたくさんあるし、そういう方法にもまだまだ可能性はあると思う。でも、個人的な意見として、詩はもっとフィクショナルなものになっていいと思う。というか、もっとフィクショナルなものとして受け止められ、読まれるようになるべきだと思う。

敢えて乱暴な言い方をするならば、詩にはたぶん、意味なんか必要ないと思う。もっと感覚的なもの、そう、ニュアンスがあればそれでいい。ムードといってもいい。アトモスフィアと言い換えても構わない。要するに、そういうイメージを想起させる力が綴られた言葉から立ち昇っているかどうか、それが全てだ。そこに綴られた詩の言葉に、どれだけ扇情的で性的な物語が描かれていても、どれだけ残酷で殺意と悪意に満ちた世界が描かれていても、どれだけ甘く生ぬるい夢のような純愛が描かれていても、そこにあるのはニュアンスやムードといった曖昧なイメージであるはずなのだ。でも、人はどうしてもより具体的な物語を求めたがる。

作者である詩人本人の背負っている背景やしがらみなど、作品の本質とは本来無関係であるべきだし、逆に作品からその作者の置かれている背景やら境遇やら、もっといえば思想や嗜好までを推し量るというのは、何とも言えない違和感を覚える。なぜならば、詩の向こう側にいるのは、作者である“私”そのものではないはずだからだ。“私”はフィルターでしかない。あるいは媒介でしかない。

詩と“私”を切り離すことが容易ではないのは重々承知している。でも、詩が“私”から切り離して読まれるようになれば、もっと詩は自由になれる気がする。そして、もっとポピュラリティを獲得することができるのではないだろうか。そのためには、詩の言葉には“私”という裏付けなど必要としないぐらいの、圧倒的な力強さが必要なのだろう。万葉の歌が未だに色褪せないのはそこに物語があるからではなく、言葉本来の持つ、イメージを想起させる力がそこに宿っているからではないだろうか。

詩と“私”を切り離せ。詩の言葉に、もっと力を。
イメージせよ。そしてイメージさせよ。



散文(批評随筆小説等) 詩と“私”を切り離せ。 Copyright 大覚アキラ 2005-07-13 17:38:37
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