言葉の外へ。
大山猫

 我々は一般に、思考や言葉に厳密性を求め、それらに境界線を引こうとする。しかし、境界線とはそういったかたちで可能なものだろうか?境界線とは、視覚の形式である、と考えて良い。とすると、それ自体として視覚に属さない思考や言葉に境界線を引こうとするのは錯誤以外の何物でもない(意識の視覚優位性の誤謬)。言葉の明瞭な境界線とは、文字の輪郭がはっきりしているか、というレベルでしか取り扱えない。
 問題は、言葉が指示する、外部を指向する、というところにある。個体内、個体間(主観、間主観)において指示性、外部指向性を考えることはできる。問題は、立てられる/成立する/Setzen、という奇妙極まりない事態にある。
 technee(技術)は指示性の限界を追求する。artは指示性による指示性の解消を追求する。両者は独立であって、協調することも背反することもできる、techneeは暴力であり、artは倒錯である。とはいえ、暴力と倒錯こそ、我々の成立基盤であろう。
 …或いは、倒錯の倒錯こそ至高の倒錯であり、暴力への暴力こそ究極の暴力である、かも知れないのだ。


散文(批評随筆小説等) 言葉の外へ。 Copyright 大山猫 2005-06-24 05:12:08
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