ふるさとのリアリティ
EnoGu

2001.3.15   ただ、近頃はホームレスのテントが非常に増えてわざわざ出かけても
        楽しい場所であるかどうかは何ともいえません。ホームレスのテント
        の少ない所というと、両国から下流とか、尾竹橋より上流には少ない
        ようで、台東、墨田両区にまたがる隅田公園付近は特に多いようです。

2001.5.7     4月30日、悲しいことですが、台東スポーツセンターの行事へ向
         かう女子大生の殺人事件が起こってしまいました。犯人は逃走中です
         が、こういう事があると、楽しい散歩道というわけにはいきません。

2001.5.10    犯人は29歳の男で、簡単にいえば痴漢だったんてすね。女性の一人
         歩きや、お金をもって歩くのはとにかく危ない世の中になりました。



1. 東京都中央区日本橋人形町(にんぎょうちょう)

ぼくの生誕地は歴史と文化の香り漂う、江戸のなかの江戸、下町のなかの下町。 かの谷崎潤一郎の生家はあるいて二分のご近所さん。 明治座に水天宮、ゼイタク煎餅に甘酒横丁。 前都知事シャボン玉ホリデーの青島幸雄氏は当地の東華とうか小学校の大先輩。 ちょっと離れるけどその昔は松尾芭蕉が橋一つむこうの深川で庵を構え門弟たちの指導にあたったらしい。

なにしろ日本橋の人形町といえば、江戸城のなかにあった町、言葉の本来の意味での城下町。 そんなぼくら人形町っ子に言わせれば浅草なんざぁインチキ下町、おとといきやがれってんだちきしょーめ、てなもんでありんす。

えー。 とかなんとか威勢のいいことぬかしといて、ご期待を裏切るようですが、ぼくにはその生まれ育った人形町という町の記憶がほとんど、残っていません。 じつはぼくが小学二年生の時、ぼくの自閉虚弱ぶり(笑)を見かねた両親がぼくを静岡県は伊東市にある健康学園という名目の更正施設(?)に二歳上の姉ともどもブチこんだのである。 そこで二年間、乾布摩擦したりジョギングしたり筋トレしたり山遊びしたり釣りしたりしてスクスクと野生化している隙に、実家は中野区の現住所に引越しを済ませ、小学五年生以降はそこで別人としての人生をひょうひょうとスタート、高校卒業後はヴァンクーヴァー、カルガリー、長野市、宇都宮市、世田谷区、金沢市、那覇市などを転々、根無し草としての人生を歩んだ挙句、現在(新宿区)に至るわけですが…そのあたりの経過は本稿の趣旨とはあまり関係がありません。

とにかく人形町。 現在の人形町には、そのぼくの生まれ故郷としてのリアリティはほとんど跡形もなくなっている。 東京近辺にお住まいの方でしたらお分かりかと思いますが、現在の日本橋人形町にはイニシエの下町の風情などというものはからっきし残っちゃあいません。 金融関係のオフィスビルや高速道路の林立する大狭間でセコセコしたグルメタウン、インチキ臭い観光資源としての下町の演出ばかりがギラギラと目に付いて、こちとら見ていてほんっとムカムカしてくんだい!! ご存知バブル時代のお祭り騒ぎのなか、我が家をはじめとして実に多くの江戸っ子たちが退出を余儀なくされた挙句のこのザマ、なのでした。 ちなみにウチは祖父さんの代まで畳屋やってましたがその馬鹿な息子(ぼくの父親)が画家を志し廃業。 わが母校、東華小学校は少子化のあおりで今は無く、近隣の2,3の小学校と合併して現在は「日本橋小学校」となっております。 なんたる味気もクソもない名前…。


2.  隅田川新大橋
江戸時代に大橋と言われた両国橋の次に架けられたことから「新大橋」と呼ばれた。 現在の「新大橋」は昭和51年斜張橋に架け替えられた。 特徴は約170mの橋桁と中央の2本の主塔、4本のケーブルなど。 橋へのライトアップは夏・冬にそれぞれ色分けされて行われている。 明治45年に架け替えられた旧橋は愛知県の「明治村」に保存されている。

場所 中央区日本橋浜町(2) −江東区新大橋
長さ・幅   170.0   24.0   鋼斜張橋

ドラマ「ロングバケーション」撮影場所として、今でも若いビジターが多い新大橋。 隅田川の橋には珍しく、イルミネーションには間接照明を使い、夕暮れには、 黄色い柱が明るく暖かい光で照らし出されます。
元禄6年(1693)に現在位置よりやや下流に木の橋がかけられ、当時、現在の両国橋を 「大橋」と呼んでいたので、こちらを「新大橋」としたそうです。その後、明治45年 に現在位置に鉄橋として架けられ、昭和52年に現在のかたちに架けかえられました。 ふもとには、松尾芭蕉宅もあり、芭蕉がこの橋の句を残しています。


「ありがたや いただいてふむ 橋の霜」  芭蕉



ぼくの記憶の知っている隅田川は三途の川。 二十数年前の隅田川は汚染のピークで水の色はドドメイロ、ヘドロやら獣の死体やら大小さまざまなごみの渦巻くまさに地獄の川でした。 そしてそこにかかるコンクリとワイヤーでできた新大橋はまさに現代の鬼門。 地獄の入り口(笑)です。 体が弱く、家にこもりがちだったぼくを心配して両親は新大橋のむこう(深川ですね)にあったスイミングスクールに無理やり通わせていたのですが、それがイヤでイヤで、たまらなかった。 深川はその昔、比較的所得の低い階層の人々の住むいわば「被差別部落」のようなところでした。 教養の無い母親からいろいろ恐ろしい話を聞かされていたぼくは、隅田川の向こうには鬼が住んでいると真剣に信じていたわけです。  どうしてそんなところへわざわざ毎週日曜日母親のこぐ自転車の後ろに乗せられて通わなくてはならないのか。 ぼくの日曜日はいつも憂鬱な日曜日でした。 そして忘れてはならないのが八名川やながわ小学校。 川を挟んで小学校同士のなわばり争いのようなものがあり、深川の八名川小、蛎殻町かきがらちょう有馬ありま小、そしてわが人形町の東華小は宿敵同士だったのです。 砂団子を作ってお互いの学校に潜入し、滑り台など物陰から他校の生徒を急襲する…なんて書くとなんだか微笑ましいエピソードみたいですが、ヨワゾウのぼくにとって彼ら他校の生徒たちは血に餓えた野良犬並みの、真に恐怖の対象でした。 そういえばあのころは東京のど真ん中にも、野良犬がうようよしていたもんです。 いまの子供たちには信じられないでしょうね。 …とにかく、浜町公園で八名川小の上級生たちに囲まれて無理矢理喰わされた砂団子の、あのジャキジャキした感触はぼくにとって生涯忘れられない、まぼろしのふるさとの味です。

 いまや中央区をはじめとする下町では人口の低下が著しく、小学校もどんどん統廃合が進んでいます。 エコロジーが大々的に叫ばれ、隅田川の「浄化」もかなり進み、大規模な護岸工事の結果、中央、江東区両岸には「テラス」などと仰るこじゃれた緑地帯が作られ、休日ともなると遊歩道にはきままな散歩者やらカップル、犬を連れた貴婦人方(ちょっと誇張)が闊歩しています。 近隣地域別の所得の格差もバブル以降はほとんど目立たなくなりました。 しかし、それと同時にホームレスや船上生活者、ならびに「山谷」問題といった社会問題が顕在化しています。 
「リバーサイド」「臨海都市開発」といった言葉がもてはやされる裏側で日々確実に「浄化」されてゆくもの、ヒト、そしてその記憶たち。 …それらはこれからいったいどこへ行くのでしょうか。 「バブルの孤児」であるぼくたちの宿題は限りなく奥深いものであるようです。 …舌がもつれてしょーがねえなぁ、こんちきしょーめ。


引用・参照サイトURL

隅田川フレーム http://www.dgck.net/uasanyi/html/sumida/sumi_00.htm

深川江戸資料館 http://www.baynet.ne.jp/~l-koto/tenji/tenji_edo1.html

追記: この拙文はオンライン詩誌「IN/OUT」に掲載されていた安田倫子さんの詩「路地の入り口」を読んで自分なりに考えたこと感じたことをつらつらとしたためたものです。


散文(批評随筆小説等) ふるさとのリアリティ Copyright EnoGu 2003-07-02 00:25:07
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