月曜日の幽霊
岡部淳太郎

またひとつ、なさけない歌


#1

夜は水のように滑らかで
闇は塩のように喉にひっかかっている
残る思い
その中で 何故と問う暇もなく 男は死んだ
海の そのくるった観念の中で
またも残る思い
何故と問う暇もなく
女は男を失った
男が死んだ時
女は快楽のように泣いた

#2

夜毎の逢瀬 かつての
何故と問う暇もない熱情
男は女を求めた
女は男をさらに求めた
波のように互いの間を往来する欲望
何故と問う暇もない 夢の刻
二人の間で確実にひとつずつ増える秘密
だが いまや男は海にのまれ
女は塩の味で悲しみながら
新たな秘密をつくりだそうとつとめていた
城の庭園にある古井戸
夜が来る度に
女はそこに通うようになった
井戸は 海とつながっていた

#3

何故と問う暇もなく
死んだ男への思いに駆られて その熱病のままに
女は井戸に赴き
その中に男に向けて書いた手紙を落とした
毎夜
まったく違った内容の手紙を
女は井戸に落としつづけた
不在の者への手紙を投函する
背徳の孤独
海の底で男は
ひとり 海流に揺られていた

#4

夜毎女が井戸に落とす手紙
その内容は女にさえ意味不明
死んだ男が読んではじめて理解されるものだった
だが 果たして男のもとに手紙は届いているのだろうか
井戸は本当に海とつながっているのだろうか
それら多くの疑問を問う暇もなく
そんな暇を自らに与えることを禁じて 女は
奇妙な形で復活した夜毎の逢瀬を なおもつづけた
人々は口々に噂をした
――「月」の光にやられたに違いない
だが女は孤塁に立ち
永遠のような反復の中で 揺れていた

#5

ある夜
それは「月」の夜であろうか
その 魔術の夜であろうか
いつものように女が男への手紙を井戸に落とし
背中を向けて立ち去った時
井戸の中から誰かのつぶやく声が聴こえた
それはたったいま手紙を投げた女の声のようにも聴こえ
海底で眠っている男の声のようにも聴こえた
女はその声を聴かなかった
夜の幼い遊びから遅く帰宅した子供によって
その声は聴かれた
その子供は男と女の双方に似ていたが
女の腹から生まれたのではなかった
その子供はすれ違った女のおくれ毛に見とれ
まだ小さい陰茎を縮ませていた
井戸からの声は
遠い海の波の音と調和して
雲が星々を隠すまでつづいた

#6

何故と問う暇もなく
子供はその声に脅えた
その時彼の陰茎の中に血が殺到し幼い屹立を促した
女はその声のことを知らないので
次の夜も 手紙を落とすために井戸にやってきた
そして女が手紙を落として立ち去るのを待ちかねていたかのように
井戸の中からひとつの幽霊がずぶ濡れになって現われた
それは前夜と同じあの声を発していた
そして男と女の双方に また声を聴いた幼い子供に
よく似た姿をしていた

#7

井戸からの声も
ずぶ濡れの幽霊も
まったく知ることなく 女は井戸に通いつづけた
やがて女は年老いて
かつて男に愛されたその美しさも皺の中に消えて
それでも女は男への手紙を書きつづけ
夜毎それを井戸の中に落としつづけ
その間も「月」のものは落ちつづけ
決して腹をふくらませることはなく
千年と 百年ののち
女は死んだ
その遺体は男のもとにたどりつけるよう
女が書いた無数の手紙と同じく
井戸の中に落とされた
通信完了。
井戸からふたたびずぶ濡れの幽霊が現われて
頭上の 「月」に向かって何事かをつぶやいた
何故と問う暇もなく
幽霊は
夜の
人々が呼吸する空気に溶けて消えた
私は月曜日に生まれた
残る思いは
遠い海の底にある



個人サイト「21世紀のモノクローム」より


自由詩 月曜日の幽霊 Copyright 岡部淳太郎 2005-06-09 22:08:16
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