消えない一行
後期
朝、机に向かうと、原稿用紙の中央に一行だけ書かれていた。
「昨日の夜、あなたは誰かを見た。」
私はそれを消した。
理由は特にない。ただ、そこにある必要を感じなかったからだ。
しかし消し終えて顔を上げると、同じ一行がまた現れていた。
少し考えたが、再び消した。
また現れた。
三度目に消したとき、私はようやく、この作業には終わりがないのではないかと思い始めた。だが、それでも消すことをやめる理由にはならなかった。そこに書かれているのは、どうしても見過ごせない文章だったからだ。
昼頃になると、郵便が届いた。
役所からの通知だった。
封筒を開けると、紙が一枚入っていた。そこにも同じ一行が書かれている。
「昨日の夜、あなたは誰かを見た。」
その下に小さな文字でこう書いてあった。
「確認のため、近日中にお越しください。」
私はその意味を理解できなかったが、どうやら私が何かを見たことになっているらしい。
しかし、昨日の夜のことを思い出そうとしても、どうしても思い出せなかった。
役所の建物は、街の外れにあった。
薄暗い廊下を通り、番号札を受け取り、順番を待った。
やがて名前を呼ばれ、小さな部屋に入った。
机の向こうに座っている男は、書類をめくりながら言った。
「あなたは昨日の夜、誰かを見ましたね。」
私は答えた。
「覚えていません。」
男は頷いた。
まるで、その答えを予想していたかのようだった。
「思い出す必要はありません」と彼は言った。
「見たという事実だけで十分です。」
私は何を意味しているのか尋ねようとした。
しかしその前に、男は一枚の紙を差し出した。
そこには、すでに一行が書かれていた。
「昨日の夜、あなたは誰かを見た。」
「ここに署名してください」と男は言った。
私はためらった。
しかし、署名しない理由も思いつかなかった。
ペンを取ると、ふと気がついた。
その紙の下には、すでに多くの署名が並んでいた。
そしてそのどれもが、
私の筆跡だった。
私は顔を上げた。
男は静かに言った。
「心配はいりません。皆さん最初はそうおっしゃいます。」