小説の習作 原稿用紙三頁
田中教平
彼は何度も風呂に入った。その度に膝の違和感は消えて、気づくと又痛み出した。
遂に風呂の栓を抜くと、シャワーで髪と体を洗った。
その間、ユウスケは情緒と論理について考えて、又、芥川龍之介の事を考えていた。
さっき見た動画では作家の田中慎弥氏が、芥川と言えば何が一番良い作か、という問いに、「杜子春」を挙げていた。ユウスケは「歯車」ではないかと考えていたが、やっぱり田中慎弥氏は「歯車」の名も挙げて、しかし、
その筋はどうだったか、と言って、やっぱり「杜子春」が良いのではないか、と言っていた。
ユウスケはこの日、情緒の事を考えていたから、芥川作品を印象的に頭の中で取り扱いながら、「蜜柑」という手もある、と思った。
蜜柑は私小説風でもあり、作者の電車の中でのある出来事について語っているのだが、ある少女のエピソードを通じて、作者の心が晴れる、というのが筋である。
彼が頭を拭いていると、妻のカナが来て
「さっき言ったわたしの俳句が狙いに行っているっていいこと?」
と聞いてきた。
ユウスケは定型俳句を創作した事が無かったので、印象で評を口走ってしまったかな、と思って反省した。
そうして、カナが俳句を応募するとして、伊藤園の新俳句大賞であるから、彼は亡くなってしまったが、以前、その伊藤園の新俳句大賞の審査に関わっていた金子兜太先生の言葉を思いかえした。
曰く、俳句というものは、プロに任せておきなさい、新俳句の応募者は自由に書いて投句して下さい、というメッセージだった。
同時にこの方も亡くなってしまったが、松岡正剛氏の事を思いかえしていた。ともかく俳句として五。七、五の中にテキストを収めた時、コロッと何か変わってしまう所が面白い、という旨書いていた。
やはり遊びの感覚、遊んでいる感覚が大切で、ユウスケはそれをカナに伝えようとしたが、今現在、遊びの感覚を獲得する為には、スマートフォンのAIを使用するのが、宜しいのでないかと思った。
ともかく情景を打ち込んで、それを定型俳句に直して下さいとやってみるのである。
そもそも俳句というのは座の文学であり、仲間でわいわい集まって、刺激しあう関係が構築できないと、遊びの感覚もないし、あたらしい発想や、又は技巧のようなものも、味わえないと思ったからだ。
そういう意味で、ユウスケは一人、黙々小説を書いているタチだったから、それだけ時間と手間とかけて真剣に遊ぶ、という俳人と云われる人間を想像して見て、良いな、面白いな、と思っていた。
そうして先ほど、カナが読ませてくれた俳句にもう一度目を通したのである。