沈黙翻訳家
後期

私は沈黙翻訳家だ。
仕事は、沈黙を翻訳すること。
人が何も言わなかった瞬間を文章にする。

呼吸の長さ。
椅子の軋む音。
指が机に触れる間隔。
紙や衣擦れの音。

音だけでは分からない。
間の取り方。
揺れの強弱。
音の微かな途切れ。
そこから心理を推測する。

普通の翻訳家は外国語を訳す。
私は、発生しなかった言葉を訳す。



依頼は小さなものが多い。
夫婦の沈黙。
友人の沈黙。
別れ話の沈黙。

録音を聞く。
沈黙の密度を読む。
書く。

「もう、好きではない」
「反対したいが、言えない」

依頼人は頷く。
「それです」

人は言葉で嘘をつく。
沈黙は嘘をつくのが下手だ。
そう信じていた。



三年前、沈黙の誤訳事件が起きた。
会社の会議室だった。

社長は九分間、何も言わなかった。
役員たちは私に翻訳を依頼した。

録音を聞く。
浅い呼吸。
椅子が一度だけ鳴る。
指が机に触れる。

私は書いた。

「この計画は危険だ。
だが、私は反対する勇気がない」

会議記録に残り、計画は実行された。
一年後、会社は倒産した。

社長は後に言った。
「私は賛成していた」

沈黙の意味は逆だった。
恐怖の沈黙も、確信の沈黙も、形は同じだった。
私が見るのは、音だけだ。
呼吸。椅子の軋み。指先の微かな震え。
どちらも、同じ沈黙に見える。

私は初めて、沈黙が誤訳されることを知った。



裁判に呼ばれた。
沈黙裁判だ。

検察官が言う。
「あなたの誤訳が会社を破綻させた」

私は答える。
「沈黙には原文がありません」

検察官は笑う。
「翻訳者の言い訳だ」

裁判長が尋ねる。
「あなたは沈黙を断定したのですか」

私は首を振る。
報告書には書いてある。

解釈A 65%
解釈B 30%
不明 5%

沈黙翻訳には信頼度がある。
医師の診断書のようなものだ。

裁判所は結論を出した。
沈黙翻訳は解釈報告であり、断定ではない。
私は無罪だった。

だが、その日、私は気づいた。
沈黙は誤訳されるのではない。
そもそも正解が存在しない。



沈黙を捏造する人間が現れた。

彼らは沈黙を設計する。
呼吸を整える。
椅子の音を計算する。
指や机の微かな触れまで作る。

翻訳される沈黙を作るのだ。

私はその男の沈黙を訳した。
「私は何も隠していない」

三日後、横領の証拠が見つかった。
沈黙は演技だった。



沈黙の闇市場が生まれた。
政治家。企業。裁判。

「誠実に見える沈黙を作ってほしい」
依頼が来る。

沈黙は商品になった。



ある日、警察が来た。
連続事件だった。

被害者は全員、沈黙翻訳家。
部屋には録音機だけが残る。

録音には長い沈黙。
誰も翻訳できない。

三十分の沈黙。
呼吸がない。
衣擦れもない。
椅子の音もない。

それは人間の沈黙ではなかった。



犯人は見つかった。
ある男。
ほとんど話さない。
ただ沈黙している。

私は録音を聞く。
沈黙だけが続く。

理解した。
彼は沈黙しか話さない人間だった。
言葉が存在しない。
翻訳単位も存在しない。



その夜、自分の沈黙を録音した。
再生する。
呼吸。椅子。紙の音。

ノートに書く。
「沈黙には正解がない」

誤訳される沈黙。
作られる沈黙。
売られる沈黙。
消される沈黙。
翻訳できない沈黙。

社長の沈黙も、もしかすると誤訳ではなかったかもしれない。

あの九分間、彼はまだ決めていなかった。
沈黙のあとで意味が変わった。

もしそうなら、沈黙は最初から意味を持っていない。



録音機を止める。
部屋は静かだった。
もう、沈黙は、沈黙ではなかった。

まだ言葉にならない何かが、そこら中に溢れていた。

息を止めるように、
最初から、
ワラッタ。


自由詩 沈黙翻訳家 Copyright 後期 2026-03-06 15:43:26
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