沈黙翻訳家
後期
私は沈黙翻訳家だ。
仕事は、沈黙を翻訳すること。
人が何も言わなかった瞬間を文章にする。
呼吸の長さ。
椅子の軋む音。
指が机に触れる間隔。
紙や衣擦れの音。
音だけでは分からない。
間の取り方。
揺れの強弱。
音の微かな途切れ。
そこから心理を推測する。
普通の翻訳家は外国語を訳す。
私は、発生しなかった言葉を訳す。
※
依頼は小さなものが多い。
夫婦の沈黙。
友人の沈黙。
別れ話の沈黙。
録音を聞く。
沈黙の密度を読む。
書く。
「もう、好きではない」
「反対したいが、言えない」
依頼人は頷く。
「それです」
人は言葉で嘘をつく。
沈黙は嘘をつくのが下手だ。
そう信じていた。
※
三年前、沈黙の誤訳事件が起きた。
会社の会議室だった。
社長は九分間、何も言わなかった。
役員たちは私に翻訳を依頼した。
録音を聞く。
浅い呼吸。
椅子が一度だけ鳴る。
指が机に触れる。
私は書いた。
「この計画は危険だ。
だが、私は反対する勇気がない」
会議記録に残り、計画は実行された。
一年後、会社は倒産した。
社長は後に言った。
「私は賛成していた」
沈黙の意味は逆だった。
恐怖の沈黙も、確信の沈黙も、形は同じだった。
私が見るのは、音だけだ。
呼吸。椅子の軋み。指先の微かな震え。
どちらも、同じ沈黙に見える。
私は初めて、沈黙が誤訳されることを知った。
※
裁判に呼ばれた。
沈黙裁判だ。
検察官が言う。
「あなたの誤訳が会社を破綻させた」
私は答える。
「沈黙には原文がありません」
検察官は笑う。
「翻訳者の言い訳だ」
裁判長が尋ねる。
「あなたは沈黙を断定したのですか」
私は首を振る。
報告書には書いてある。
解釈A 65%
解釈B 30%
不明 5%
沈黙翻訳には信頼度がある。
医師の診断書のようなものだ。
裁判所は結論を出した。
沈黙翻訳は解釈報告であり、断定ではない。
私は無罪だった。
だが、その日、私は気づいた。
沈黙は誤訳されるのではない。
そもそも正解が存在しない。
※
沈黙を捏造する人間が現れた。
彼らは沈黙を設計する。
呼吸を整える。
椅子の音を計算する。
指や机の微かな触れまで作る。
翻訳される沈黙を作るのだ。
私はその男の沈黙を訳した。
「私は何も隠していない」
三日後、横領の証拠が見つかった。
沈黙は演技だった。
※
沈黙の闇市場が生まれた。
政治家。企業。裁判。
「誠実に見える沈黙を作ってほしい」
依頼が来る。
沈黙は商品になった。
※
ある日、警察が来た。
連続事件だった。
被害者は全員、沈黙翻訳家。
部屋には録音機だけが残る。
録音には長い沈黙。
誰も翻訳できない。
三十分の沈黙。
呼吸がない。
衣擦れもない。
椅子の音もない。
それは人間の沈黙ではなかった。
※
犯人は見つかった。
ある男。
ほとんど話さない。
ただ沈黙している。
私は録音を聞く。
沈黙だけが続く。
理解した。
彼は沈黙しか話さない人間だった。
言葉が存在しない。
翻訳単位も存在しない。
※
その夜、自分の沈黙を録音した。
再生する。
呼吸。椅子。紙の音。
ノートに書く。
「沈黙には正解がない」
誤訳される沈黙。
作られる沈黙。
売られる沈黙。
消される沈黙。
翻訳できない沈黙。
社長の沈黙も、もしかすると誤訳ではなかったかもしれない。
あの九分間、彼はまだ決めていなかった。
沈黙のあとで意味が変わった。
もしそうなら、沈黙は最初から意味を持っていない。
※
録音機を止める。
部屋は静かだった。
もう、沈黙は、沈黙ではなかった。
まだ言葉にならない何かが、そこら中に溢れていた。
息を止めるように、
最初から、
ワラッタ。