誤読
後期
私は誤読されるために書いている。
そう言うと編集者は困った顔をする。
「いや、できれば正確に読まれたほうが……」
正確とは何か。
私は三百枚の原稿を書いた。主人公は爆弾魔で、最後に世界を救う。だが読者の半分は「反戦小説」だと言い、残り半分は「暴力礼賛だ」と怒った。中には「純愛もの」と評した者もいる。
私はどれも否定しなかった。
なぜなら、全部当たりだからだ。
作品は作者の意図で完結しない。読者の脳内で再構築されて初めて起動する。つまり読者は共犯者だ。誤読とは、共犯行為の別名である。
私はある実験をした。
小説の冒頭にこう書いた。
「これはフィクションである。実在の人物・団体とは一切関係がない。」
すると読者は安心して読んだ。
安心すると人は疑わない。
次の版ではこう書いた。
「これは事実である。」
今度は皆、疑いながら読んだ。
疑いながら読むと、どんな文章も陰謀に見える。
同じ本文なのに、評価は真逆になった。両陣営が私を味方だと主張し、
その結果、私は両方から訴えられた。
つまり誤読は本文の問題ではない。
姿勢の問題である。
ある読者が言った。
「先生、この主人公はあなたですね?」
私は答えた。
「あなたです。」
読者は怒った。
怒るということは、自分の中にその人物を見つけたということだ。誤読は自己発見装置である。
私はさらに実験を続けた。
主人公の性別を明示しない。
読者は自分の性別を押しつける。
中には「両性具有の象徴だ」と論じる者も現れた。
私はどれも否定しない。
なぜなら、書かれていない部分は読者の所有物だからだ。
誤読は奪取である。
読者は空白を奪い、自分の意味で埋める。
だが奇妙なことに、私自身も誤読している。
自分の過去の作品を読み返すと、「こんなことを書いた覚えはない」と思う。
それでも確かに私の文章だ。
では誰が書いた?
書いた当時の私は、今の私にとって他人である。
私は自分を誤読する。
つまり作者とは、最初の読者にすぎない。
ある日、批評家が断言した。
「この作品の主題は“誤読の暴力性”だ。」
私は驚いた。そんなことは考えていなかった。
だが考えてみると、確かにそう読める。
私はうなずいた。
「その通りです。」
嘘ではない。
書いた瞬間に意図は崩壊する。
文章は作者の手を離れ、読者の脳で変形する。
誤読とは、作品が生きている証拠である。
ただし。
本当に恐ろしいのは、誰にも誤読されないことだ。
完全に理解される文章。
完全に意図通りに受信される言葉。
それは通信であって文学ではない。
私は今日も書く。
あなたが私を誤読することを期待しながら。
そしてあなたがこの小説を
「誤読を肯定する物語」だと読むなら、
それはたぶん――
正しい誤読である。
そう書いたのは、たしかフランス辺りの誰かだ。