「鯖詰缶太郎『紙、ふぶき。』集約一例 」澤あづさ
https://www.breview.org/keijiban/?id=13638
この雑文はネット投稿板B-REVIEWに投稿した批
評文の一部数行を訂正加筆し、タイトルを「澤あ
づさ氏の詩批評を根底から批判します 」から上の
タイトルに変えたものです。
わたしはネット界の文芸批評の大御所といわれる
澤あづさ氏の批評に以前から疑問を抱いてきまし
た。
最近ヒマができたので、たまたまAOI氏の詩を検
索していたらAOI氏の詩ではなく鯖詰缶太郎さん
の『紙、ふぶき。』という詩への批評文──【鯖
詰缶太郎『紙、ふぶき。』集約一例】が目につき
ました。
わたしは何気に、一読して、詩もまずいが批評も
これはちょっとまづいぞと思いました。
しかし、多くの方が詩や批評に絶賛のコメントを
書いています。AOI氏もコメント欄で詩を評価され
ていたので、多分、それで検索にこの批評文がひ
っかかって出てきたのだと思います。
そこでこの批評文を材料にして「こういう批評は
あまりやってはダメ」という見本を初心の投稿者
さまに指し示すつもりで澤あづさ氏の批評に感じる違
和感の正体を探っていきたいと思います。
澤氏の批評を批判するまえに、
まずわたしが鯖詰缶太郎さんの『紙、ふぶき。』
https://www.breview.org/keijiban/?id=13500
という詩をどう解読したかを示しておきます。
そのうえで、澤あづさ氏の読解と比較してみて下
さい。以下、直感と実感で解読していきますが
『紙、ふぶき。』の一連は次のように始まります。
やけに 緑の看板のコンビニエンスストアの
多い街でした 人でいるのが いやになれば
紙飛行機に なれる街でした
「やけに」という言葉には、通常、否定的なニュア
ンスや、納得のいかない違和感、異常さを表す意味
が含まれます。 つまり、その否定的なニュアンスが
冒頭にあるということから、書き手が「緑の看板の
コンビニエンスストアの多い街」に嫌な気分を抱い
ていることが推測できます。
そこから次の「人でいるのが いやになれば紙飛行
機に なれる街でした」ということばが出てきます。
「紙飛行機」は「そこ(いやな町=同型のシスマテ
ィクな建物が乱立する町」)から離脱できる「簡便
な何か」の比喩的な象徴と考えられますが「紙飛行
機」という多層で多様な詩的なイメージをまとう語
彙に書き手がどんな思いをたくしているのか、その
後の展開がないので非常に特定しずらくなっていま
す。
しかし「紙飛行機」になるのは人間である書き手で
すから、ここで「紙飛行機」になった人間の状態を
「紙飛行機」の特性から容易に推測することはでき
ます。
【紙飛行機の特徴】
●浮遊感・高揚感
ふわりと軽くなり空を舞う。
エンジンや乗客などから解放されて空に浮いている。
●主体性の喪失と風任せ
紙飛行機は風や気流に身を任せて飛びます。
その場の気圧や流れ(風)に身を委ねて風まかせです。
●危うさと脆さ
紙飛行機は華奢で、いつ墜落するかわからないし、ど
こに落ちるかもわからない。
つまり、まっすぐ飛ぶこともあれば、予想外の方向に
曲がることもある。
ここまで書けば、人間が「紙飛行機」になった状態が
推定できます。
人が「紙飛行機になる」とはつまり酒を飲んで酔っ払っ
た状態であると考えられる。(酒に限りません。クスリ
かもしれません。でもその後のヨネさんとの会話でおそ
らくそれは一般的に簡便に手に入るものである可能性が
高く、この「紙飛行機」は酒類による「酩酊状態への願
望」とみなしていいような気がします) さらに、
「いやになれば紙飛行機に なれる街でした」とは、昼
間からでも立ち飲み屋が開いているような横丁があり、
コンビニでいつでも酒が買える町であることを示して
います。以下、 【酔いの特徴】を「紙飛行機」と重
ねて列挙してみます。
★意識の浮遊、高揚感
紙飛行機がふわふわと空を舞うように、酔いが回って頭
が軽くなり、日常の悩みから解放されて空に浮いている
ような心地よい感覚。
★風任せのあてどなさ
紙飛行機は風や気流に身を任せて飛ぶ。酔うという行為
も、自分の意識がアルコールによって支配され、理性で
はなくその場の雰囲気や流れ(風)に身を委ねる。
★危うさと脆さ
紙飛行機は風次第でいつ墜落するかわからない。アルコー
ルの酩酊もまた、限界ギリギリの危うい精神状態であり、
紙のようにペラペラになった脆い理性を表す。
どこに落ちるかわからないし、まっすぐ飛ぶこともあれ
ば、予想外の方向に曲がることもある。酔いもまた、記
憶が飛んだり、思いがけない行動をとったりする予測不能
さを伴います。
以上、書き手のいう「紙飛行機」は「酩酊状態への願望」
と解釈できます。あまりにあっけないのですが詩の構造自
体がそういう単衣の上張りで出来ているので、これでもう
この詩の解読は半分終わったも同然です。
これをふんまえると二連以後の会話は容易に解釈できます。
たぶん 陽がでている間に 紙飛行機になる
のだろう と思っていましたが タバコ屋の
ヨネさんは それを 聞くと 笑っていまし
た
紙飛行機になってしまうのに 朝も夜もない
じゃないか と なに ばかなこと 言って
んだい とでも 言わんばかりに 笑ってい
ました
(訳:酒飲んで酔っ払うのに朝も夜ももないでしょ)
ヨネさんは 紙飛行機に なりたくはないのかい?
そりゃ 紙飛行機になったさ
人間やっとるし こういう街だしな
(訳:そりゃ、酒のんで酔っ払ったことはあるよ、いつ更地
になってコンビニが建つかわからないご時世だからね)
紙飛行機 なったんだけどさ
どこまでも 飛んでいけたけど 爺様がな
追いかけてくるんだ あれは 情けない顔だ
った 連敗続きで もう明日にでも 力士を
やめようとしているガリガリの相撲取りくら
い 頼りない顔しててな いかんでえ いか
んでえ って 十二指腸震わせて その声
出しとるんか って言いたくなるくらい 細
い声で言うんじゃ
とてつもなく ばかばかしくなってな
紙飛行機になって 飛んでるのも どこか
ばかばかしくなってな
くしゃくしゃくしゃー って やめたんじゃ
ここは長い割にあまり大した意味はありません。
要するにタバコ屋って代々続いた店が多いのです。戦後の
混乱期に営業を始めて戦前からを含めると100年続いている
ような店がほとんどですから、ヤケになって酒のんでいる
場合じゃないぞ代々つづいた家の伝統を守れという爺様の声
が聞こえてきたのでしょう。相撲とり云々は爺様の顔に書き
手の好みの形容が託されているだけです。
十二指腸うんぬんもそうです。
そんな爺様も 死ぬ間際は ところ
どころ 紙飛行機になっとったなあ
まあ 飛んでいく って気持ちええもんなあ
飛んでいってしまいたいもんなあ
「そんな爺様も 死ぬ間際は」と語ることから書き手とは
かなり親交があったことが伺えますが、「紙飛行機になっ
とたなあ」というのは「酒を飲んで気晴らしするようにな
っていたなあ」ということです。(←と、BE-REVEWの
投稿には書きましたが、その後、コメントにてronaさまか
ら耄碌して恍惚の人になった酩酊感ではないかという鋭い
指摘をいただき、深く反省しました。酒にこだわっていた
わたしの不肖とするところであります)
紙、ふぶいた
紙飛行機が うかんでいた
これは自分ではないだれかが酔って自在になっている姿と
いうよりは書き手がいやな現実から離脱して「紙飛行機」
になった姿を憧れのように見上げている像でしょうか。
「紙、ふぶいた」とあるから知古であるささやかな生命が
ひとつ散ったということでしょう。
総合するとこの詩はおそらく書き手とタバコ屋のヨネさん
と、ヨネさんの父親か連れ合いがらみの長い間柄で、タバ
コ屋がつぶれて駐車場やコンビニに替わっていく時代の町を
嘆息をもって嘆いている風景であると考えられます。
全体としてこの詩は解いてみれば「ああ~やんなったなあ、
酔っ払いたいなあ」という気持ちを「紙飛行機」に「集約」
したものです。
人情裏長屋的な廃れゆくものへの哀感がありますが、
「紙飛行機」という詩的なことばに依存しすぎているきらい
があります。
これが「わたしの批評」です。
BE-REVEWではAIに書かせたという失礼なコメントがありま
したが、AIに詩を書かせたり批評を書かせるということは人間
(主体)がAIに従属するということです。わたしはAIを検索に
使役してもわたしに替わってなにかを書かせてAIに従属したこ
とはありません。
「紙飛行機」を「酩酊したいという書き手の願望」だというよ
うな直感的な人間的読みができるAIどこにあります?
日本のタバコ屋の多くが戦前戦後へつづく伝統をもつところ
が多いこと、その事実から「代々の家業を守れ」という爺さんの
声という推論を重ねられるAIがどこにあるでしょう。笑
あったら是非教えて頂きたい。
さて澤あづさ氏の批評ですが、わたしの批評と比べればその違い
は明らかです。わたしの批評が「作品に添って解釈した」批評な
らば澤氏のは批評ではなく、もとの詩をネタにしたモノガタリの
生成です。
澤氏の読み(というか澤氏の妄想)を追次検討していきましょう。
【澤氏の批評】
「やけに 緑の看板のコンビニエンスストアの
多い街でした 人でいるのが いやになれば
紙飛行機に なれる街でした」
(作品冒頭)
『紙、ふぶき。』も「紙飛行機」もふつう、だれかに飛ば
されない限り飛ばない。これがこの読解の核心だ。目に映
るすべてをこの一点に集約し、詩境を脱自動化する。
「詩境を脱自動化する」なんて面倒でむつかしい言葉をなぜ使うの
かわたしにはよくわからない。でもネット詩人さんたちはこれだけ
でもう「へへーぇ。黄門様の仰るとおり」と頭を下げて称賛してし
まうのでしょうかね、知りませんが。この「脱自動化」とはフォルマ
リズムが提唱した「異化」と同じ意味です。「見慣れた日常的な光景
を、あえて奇妙で新しいものとして描き直すことで、読者に新鮮な感
覚を取り戻させること」を意味します。 それで「脱」「自動化(あた
りまえに認知すること)」です。それにしてもこの程度のことをなん
で難しい言葉でいうのか、さっぱりわかりません。ま、それはどうで
もいいのです。それより詩解釈の異様さをみていきます。
「緑の看板のコンビニエンスストア」といえば、まっさきに
思いつくのはファミリーマート、次いで駅なかのニューデイ
ズ。家庭と新生活だ、この読解をもって「紙飛行機」を婚姻/
離婚届の寓喩と暫定しよう。
は? ──。
作品には「緑の看板のコンビニ」しかない。そこからいっきに「紙飛
行機」を「婚姻/離婚届の寓喩」と読み込むのはちょっとヤバすぎじゃ?
あ、。でも、
ポストモダン批評は物語的な読みを認めている!
バルト、デリダ、ラカン以降らは確かにこう言いました。
●作者の意図は絶対ではない
●読者の読みは複数あってよい
●テキストは多義的である
●読みは生成され続ける
つまり、
「読みの自由」を大きく広げた。しかし、ここが誤解されや
すいのだけど、ポストモダンは決して作品を無視していい、
どんな妄想でも正当化できる、読み手の物語を押し付けていい
とは言っていないのです。
むしろ逆で、テキストの細部に徹底的に忠実であれ というの
がポストモダンの本質です。
たとえばバルトは「作者の死」を唱えたけれど、それは「好き
勝手に読め」という意味ではなく、テキストの内部で起きてい
る言語の運動を、作者の意図に縛られずに読む自由を与えたと
ということです。
つまり、読みは自由しかしテキストから離れてはならないとい
う二重構造をもっています。澤氏の読みは、テキストの言葉
を無視し、自分の巨大な物語(家父長制・離婚届・戦前の女性
像)を持ち込みそれを「集約」と名付けて正当化し断定的に語
るという構造をもっている。
これはポストモダンの自由ではなく、ポストモダンの“誤用”で
す。
【澤氏の批評2】
「ヨネさんは 紙飛行機に なりたくはないのかい?
そりゃ 紙飛行機になったさ
人間やっとるし こういう街だしな」
(3-4聯)
「人でいるのがいやになれば紙飛行機になれる街」に住む
「タバコ屋のヨネさん」も、おそらく「爺様」に大きな犠牲
を払ってきた。多くの庶民がヨネやらトラやら名付けられ
ていた時代、日本女性の社会的地位は、21世紀では考えられ
ないほど低かった。
は? ──。ヨネさんは戦前の日本女性だと根拠もなく決めつけてい
るけど作品には時代設定も社会背景もないのですがねえ。
【澤氏の批評3】
「紙飛行機 なったんだけどさ
どこまでも 飛んでいけたけど 爺様がな
追いかけてくるんだ あれは 情けない顔だ
った 連敗続きで もう明日にでも 力士を
やめようとしているガリガリの相撲取りくら
い 頼りない顔しててな いかんでえ いか
んでえ って 十二指腸震わせて その声
出しとるんか って言いたくなるくらい 細
い声で言うんじゃ」
(5聯)
自立できなかったかつての女と同じように、紙飛行機は
自力では飛べない。ヨネさんを飛ばしたのは、もちろん
爺様だろう。捨てた妻を追いかけてきたばかばかしい夫
の、「いかんでえ」という絶え絶えの声に、「だめだ」
と「行かないで」の二義が掛かっている。
は? ──。まるで講談師のようにすげえ面白いんだけど、でも
爺様を父権制の象徴のように解釈してるけど作品の爺様はむしろ
弱く、情けなく、滑稽ですよ。つまり父権的な暴力性は描かれて
いない。もう作品なんかそっちのけで完全に自分の妄想にハマっ
て好きなように自分のモノガタリを語る売れっ子講談師になっち
まってるけど、もとの詩作品、ただの踏み台にしてません?
【澤氏の批評4】
「そんな爺様も 死ぬ間際は ところ
どころ 紙飛行機になっとったなあ
まあ 飛んでいく って気持ちええもんなあ
飛んでいってしまいたいもんなあ」
(6聯)
かつてヨネさんを捨てた爺様が、死ぬ間際になって、ヨ
ネさんに捨てられようと紙飛行機になった。ヨネさんは
述懐する。かつて自分が夫から逃げたとき味わったあの
幸福を、爺様も内心では欲していたことに気づく。
は? ──。そうなんですか。すげえモノガタリがあったのですね。
【澤氏の批評4】
「紙、ふぶいた
紙飛行機が うかんでいた」
(7聯)
余韻とは保留である。その詩境に留まりつづけ、思いを巡
らせつづけていたいという衝動。つまり、泥酔だ。余韻に
酣酔した読者は、その他の無粋を失念する。どこの鯖缶と
もしれぬ作者の意図、優劣やら巧拙やらどうでもよすぎる
批評、そんなものに囚われていたら達成できないのが集約
である。
うむ。この最後のキメはなかなかいい。作者の意図、優劣やら巧拙
やらどうでもよすぎる批評、そんなものに囚われていたら達成でき
ないのが集約である。
この「集約」とは澤氏が冒頭で「詩情を集約する者は幸いである」と
述べていることへの回帰です。「詩情を集約する」とは、ものの本に
よると「人生の儚さ、あるいは自身の内面から溢れ出る熱烈な感情や
情緒を、冷徹かつ知的な視点で抽出し、たった一つの詩や言葉の中に
凝縮・表現することを意味する」らしいです。
澤氏にとっては、どうやらそれが「紙飛行機」という言葉らしいので
すが、もう、ここまでくると、確かに作者である鯖缶氏は「どこの鯖缶
ともしれぬ作者」でしかなくなりますわな。笑
「作者の意図、優劣やら巧拙やらどうでもよすぎる批評、そんなものに
囚われていたら達成できないのが集約である。」というこの言明は最後
のところをこう書き直せばより正確ではないだろか?
「作者の意図、優劣やら巧拙やらどうでもよすぎる批評、そんなものに
囚われていたら達成できないのがわたしの妄想(作品)である。」
わたしの批評はあまりにもあっけなく平板で面白みがないように見えま
す。とくに詩が読めない書けない詩人を気取っている方が多いネット投
稿詩人には、まったくつまらない批評でしょう。
わたしの批評に比べて澤氏の批評はなにか煮詰まったものがある。それ
が人の心を掴む。それは認めますが、それが批評になるのならもう、
批評など存在しないのと同じです。狂人が出てきて溢れ出る怨念みたいな
ものをだれかの詩をネタに、踏み台にして思い切り妄想を語ればいいの
ですから。澤氏の批評を非難しているのではありませんよ。
現在の詩の批評全般に対して疑問を覚えているのです。
難解な詩的理論の用語を散りばめて本人だけにわかっている妄想や思い
込を垂れ流す連中が多すぎる。頭がよくて知識があっても批評の倫理が
めちゃくちゃ揺らいでいる。
ほんとうにそんなことでいいのでしょうかねえ。あひっ。