凄いぞ! TOP10「真綿の君」海
室町 礼
まずこの歌詞の全体を俯瞰してみます。
真綿から生まれたような
無垢な瞳が光る
「真綿」は柔らかく白く中身を包み隠すものですが、
ここでの「無垢」とは、内面的な純粋さというより
は、「まだ何も書き込まれていない、外部からの規
定を待っている状態」を指しているように見えます。
「真綿から生まれた」のですから歴史や文脈を持た
ない、純粋な「現在の状態(構造)」としての存在
を表していると解釈してあまり間違いじゃないでしょ
う。
見えないところに
刺青を入れたの
ここが最も「構造論」的に興味深い部分です。
「構造しかない」存在にとって、自分を定義するた
めには、外部から「印」を刻む必要があります。
人に見えない場所に刺青を入れる行為は、自分にしか
分からない「型(意味)」を身体に刻み込むことで、
空虚な(真綿のように無垢な)内面に無理やり「実体」
を捏造しようとする試みとも取れます。
それを相手に告げることで、相手の脳内に「刺青の
ある私」という新しい構造を立ち上げさせています。
そう言われて
見てみたい思いしか湧かない
見れなくとも
語り手は、その「中身(刺青)」を確認したいと願いま
すが、結局は見ることができません。
中身(刺青)が本当にあるかどうかは重要ではなく、
「刺青があるという設定」を共有して夜を明かすこと、
その「関係性の形式」にこそリアリティを感じているよう
に見えます。
真綿の柔らかさを
そっと抱きしめて
夜を明かそう
この詩に登場する「君」は「無垢な真綿(空虚な器)」
である自分に耐えられず「刺青(人工的な意味)」を付与
することで、ようやく愛される対象としての「構造」を
完成させているように見えるのですが。
語り手もまた、その「刺青という記号」を媒介にして、真
綿の柔らかさ(表面的な心地よさ)を享受している。つまり、
お互いの魂の深淵を見つめ合っているのではなく、お互い
が提示し合う「設定」を抱きしめ合っている……そんな、
構造になっているようですが、
どうもこの詩のポイントは「刺青」と「真綿」の対称性のよ
うなんです。現代詩にあまり刺青というものが出てきたこと
がないように感じます。刺青は自傷行為ですし、痛みがとも
ないますし、外科的な治療を受けないと、ほぼ永久的に残る
ものです。そういうものをめぐって「見てみたい」「見れな
い」というのがどうもよくわかりません。刺青は日本では、
やくざ関係者にとってはほぼ「威嚇」の意味をもち、むかし
の漁業関係者にとっては威勢のよさを周囲に誇るものであっ
たようですがふだんは隠しています。社会との関係性のなかで、
見せたいけど隠すというこのような面をもつ刺青がどうして
この作者にとって大事なのか、あるいは「真綿」のような
「無垢」との対比で重要なのか、そこが見えてこない。
ひょとするとこの「刺青」はトラウマ、あるいは心的外傷後
ストレス症(PTSD)かもしれない。
ただですね、「内側に押し込めている巨大な痛み(刺青)」
というものが、どういうものなのかというところに疑問を感じ
るのです。先日、youtubeをみていると二歳のお子さんが夕食
のときに唐揚げを独り占めしたくて「パパとらないで」と顔
をくしゃくしゃにして大泣きしている動画があがっていました。
これは極端な例としていうのですが、この無邪気で、わたし
たち大人からみたら大した悲劇や苦痛でもない「無垢」な嘆き
だけれども自我が整っていない子どもにとってはトラウマ級の
悲劇かもしれない。いや、下手をすると無垢な心はなんでもト
ラウマにしてしまう。飽食平和に狎れた日本人はこの幼稚な子
どものように、ほんとうは大したことでもなくともトラウマと
感じてしまう脆弱なところがあるのではないでしょうか。冷酷
なことをいうようですが、わたしはこの詩の書き手とこの詩に
多くついたイイネに疑問を感じるのです。
「唐揚げを奪われた」程度の個人的な不快感を、大仰な「不可
逆の傷」へと変換しているに過ぎないのじゃないか。
本当の意味で成熟した人間(あるいは実体のある人間)は、自分
の痛みを「無垢な瞳」などという言葉で装飾しません。
この詩における「無垢」とは「私はまだ何も知らない子供であり
ゆえに世界から保護され、些細な傷も「刺青」として扱われる」
という甘えの宣言、つまり「構造の脆弱性」を武器にしている状
態だと言えなくもないのです。
読み手は詩の書き手を救っているのではなく、書き手を「深い傷
を負った悲劇のヒロイン」として承認することで、翻って自分た
ちの空虚な日常にも「見えない刺青」という物語を付与している
のではないか。
書き手は無根拠に「無垢な瞳」という前提をおいています。つまり
「無垢な瞳」にまつわる物語ですが、なぜ「無垢な瞳」なのかは
説明がない。とにかく「無垢」である。しかし「無垢」とはなに
かと考え込んじゃいますね。どんなものが「無垢」としてわたした
ち現代日本人に共有されているのか、そこのところとても曖昧でわ
かり難いはずなのに、とにかく無垢だという。そして、どんな理由で、
どんな経緯から「刺青」を入れたのかはわからない。ただ刺青を入
れたという説明無しですが刺青があるという。真っ白さと真っ黒さの、
この二項対立がこれを書いた詩人の心の叫びなのか、それとも
そういう対立の構造のテンプレートをもってきたのか。
刺青を入れるには痛みと理由があるはずなのに、理由は言わないけど、
無垢な私が「刺青」に刻印されているという図式は美しいらしい。
そこでことばの「選択」という詩の価値のひとつにスポットをあてて
みると、
「無垢」「瞳」「そっと」「抱きしめて」「夜を明かそう」.....etc
これらの言葉は、現代日本のJ-POPやSNS投稿で何万回も使い古された
「抒情のテンプレート」です。これらは読み手に「新しい発見」を与
えず、既に知っている「心地よい雰囲気」を再確認させるワードです。
もうひとつ詩の価値を量る〈転換〉(カタルシス)という面からこの
歌詞を眺めてみると転換がほぼない!
転換とは今の自分(構造)を一度壊して、新しい地平へ出ることです。
しかし、この詩の「そっと抱きしめて / 夜を明かそう」という結びは、
「何も変えずに、ただこのまどろみの中にいよう」という閉鎖的な合意
です。
詩というものは転換の部分に新しいナニかが示されることが多かったの
ですが、そういえばこの詩には転換はありませんでした。なにか現状維
持への安息、愚昧であること、停滞することへの耽溺のようなものを感
じる。そこで、そこでさらにですね、
〈比喩(隠喩や直喩)〉を分析してみたいと思うのですが、書いている
うちに退屈になり眠くなってきました。笑
すべてが音楽、比喩、構造、言葉の選択など....etcが既存のテンプレート
で構成されており、詩にあるべき独特のカタルシスはむしろ回避され、
かわって恒久の安全、安心、つまり変化のない現状維持が訴えられている
歌詞への「イイネ」全体主義にほとほと退屈してしまったようです。
突然ですがアホらしいのでここでやめます。詩を放棄した皆様の詩の
top10、でも凄いじゃないですか。すごいすごい。笑