区域B
後期
この国では、芸術は意味を与えないことを目的としているらしい。目的という言葉が正しいかどうかは分からない。ただ、意味が生じかけると、誰かがそれに気づく前に、自然と処理されてしまう。処理という言い方が一番近い。
画家は絵を描き終える。終える、というのは少し語弊がある。完成したと思った瞬間に、完成が疑わしくなるからである。出来がよい。よいと分かった途端、その部分は危険になる。画家は黙って布や紙の一部を消す。目であったり、影であったり、時には画面の中央そのものだったりする。消された箇所は埋められない。そこに何かがあったという事実だけが残る。
作曲家も同じ事情を抱えている。旋律は始まる。聴衆は安心して耳を向ける。だが、「分かるかもしれない」という感覚が生まれた瞬間、音は途切れる。指揮者は腕を下ろし、演奏者は楽器を構えたまま動かない。拍手は起こらない。沈黙が、曲の最後として扱われる。楽譜を見ると、続きが欠けているのではなく、続けなかった場所が丁寧に残されている。
小説家は最後まで書く義務がある。途中でやめるのは怠慢とされる。しかし、最終章を提出すると、必ず呼び出される。編集官は原稿を読み終え、特別な感情を示さずに言う。
「この結末は理解できます。書き直してください」
理解できるという評価は、ここでは失敗を意味する。作者は自分がどこかで意味をまとめてしまったことに気づく。書き直された結末では、人物は何かを決意しかけて、決意しない。事件は解決しかけて、形を失う。読み終えた後に残るのは、用件を聞きそびれたような感じだけである。
最も高く評価される芸術家は、感動を与えた者ではない。「何かが分からなかった」という感想だけを残した者である。その感想は否定ではなく、鑑賞が成立した証拠とされる。
私は美術館に入った。展示室は広く、壁は白い。作品は見当たらない。それでも人々は壁の前に立ち、腕を組み、顎に手を当て、満足そうにうなずいている。私も壁を見たが、何も見えない。ただ、自分が何かを見落としているのではないか、という気持ちだけが次第に強くなった。
案内人が近づいてきたので、私は尋ねた。
「何が展示されているのですか」
案内人は少し胸を張り、当然のことを説明するように答えた。
「区域Bです」
私は一瞬、聞き違えたかと思った。
「いえ、展示物のことです」
案内人は表情を変えずに言い直した。
「撤去された跡です。区域Bでは、これが展示になります」
なるほど、と思った。確かに壁には、何かがあった気配だけが残っている。釘穴のようなものが見える気もするし、見えない気もする。その曖昧さ自体が、ここでは完成なのだろう。
私はしばらく壁を眺めてから外に出た。何を見たのか説明する言葉は、最後まで浮かばなかった。ただ、説明できないという状態だけが、妙に確かな手触りをもって残っていた。それで差し支えないのだと、どういうわけか分かった気がした。私はいつからここが区域Bになったのか、覚えていない。