大寒の頃
田中教平/Kou

  大寒の頃

  ベランダで、ユウスケは煙草のパックの最後の一本を喫いきると、コカ・コーラの厚い瓶で代用した灰皿の水につけて、そのカップの蓋をしめると、ベランダの奥の方へ置いたまま、自宅室内に入った。
 ユウスケは炬燵に脚を入れて座った。一月、もうすぐ大寒の頃であった。
 テレビではもう三月並みの春の陽気が来ているらしく、今日も、妻のカナと二人、スーパーマーケットへ買い出しに出たのだが、ユウスケの着ていたセーターでは暑いくらいであった。しかし暖かいのは陽の出ている内で、こう日暮れが近くなると、やはり暖房を点けずにはいられなくなる。
「ちょっと、まだご飯作っている途中で座られると、プレッシャーになる」
と、カナの抗議が入って
「じゃあ、もうシャワーを浴びてくるよ」
と告げてユウスケは、自室の抽斗からパンツとバスタオルを持ちだすと、洗面所に向かった。裸になり、風呂場に入ると、自身でシャワーを浴びる前に、浴槽の掃除を行った。
 カナは腰痛持ちであった。カナは今年で四十三になる。四十、四十一、四十二、と数が増える度に、体のアチコチを痛める事が多くなった。それでもカナは自身の体力に自信めいたものを持っているらしく、去年の歳の暮れ、ドラッグストアで2ℓのペットボトル二本とその他もろもろの荷物を持って自宅に徒歩で帰ってきた。この家庭に、車は無かった。
 それを原因として、腰を痛め、今では朝頃になるとカナはユウスケに腰を突き出して、ユウスケが軟膏を塗ってやる、というのが習慣になった。そうして、以前までふたり、水道代を節約する為に、夕べはシャワーで済ませていたが、カナのその腰痛を緩和する為に、湯を沸かして入るようになった。
 ユウスケは浴槽を女の肌でも撫でるようにこすると、一気に冷水で風呂洗剤を流し、浴槽の栓をした。しかし、カナが風呂に入る時間がいつも遅いので、まだ、湯は入れない。
 風呂掃除の丁寧さとはひきかえ、ユウスケの体を洗う調子は髪、首筋、腋、下腹部、脚の先は丁寧洗うけれども、他は雑だった。
 というのも、ユウスケは、統合失調症を患っており、障がい者手帳2級の資格者だった。
 現在、就労継続支援事業所に通い、リハビリを兼ねた社会就労をしているのだが、明日は休日なので、あまり体を洗う事に熱心になれなかった。これが、出勤日前の日となると、やたら熱心に体を洗いあげた。
 熱湯を使って体を洗いあげた後、ユウスケは必ず冷水シャワーを浴びる。健康上、良いという話は、無料動画サイトの動画で知っていたし、何より生きている、という実感があった。
「出たよ、カナちゃん、ああ、夕飯できてるね」
 シャワーから出たユウスケは、炬燵の上に置かれている料理に目を向けて言った。
「お味噌汁がまだだけれど、先に食べてて」
 カナの言葉に、調子を上げたユウスケは、では、といった風に、豚肉ともやしを絡めた炒めものに舌鼓をうった。
「はい、ご飯、それからお味噌汁」
 豚肉ともやしを絡めたものは、少し、味が「しょっぱい」感じがした。しかしユウスケは、決してそういうネガティブな文句は言わないように配慮して、どういう風に表現するかというと
「この豚肉はまるで大阪な味だね、そしてこっちの味噌汁は京風だね」
と当てずっぽうで言う。加えて
「お酒が飲みたくなる味だ」
と言う。
 カナの調子が良くなって
「ウイスキーが飲みたいんでしょう?」
と訊く。
と言うのも、先の正月の合間、ユウスケはウイスキーばかり、氷と水で割って飲んでいた。最初はちょろりと飲んでいたものの、日に日に酒量は増え、買ってくるのはウイスキーの小瓶であったが、一日で一瓶空けるようになってしまった。
 ユウスケは素面のとき、昔、自分がまだ精神科病院に入院していて、退院時に貰った書類に目を通した。
 すると、向精神薬の説明欄に、「飲酒厳禁」と書かれてあることに気づいた。それから慌てて禁酒する事になった。
「美味しかったよ、カナちゃん、もう動けない」
カナは手際よく、料理の後片付けを行った。これにユウスケが協力してしまうと、かえって邪魔で、倍の手間がかかってしまうことはユウスケにも分かっていた。
「じゃあ、僕、今日の日記をパソコンで書く」
 キッチンとリビングは自宅二階にあった。ユウスケは一階、書斎に向かい、ノートパソコンを立ち上げると、今日一日のあらましを書いていった。ときに不満めいた事を書いてしまう日もあったが、この日記は、ユウスケの心を洗うルーティンの一つだった。
 ユウスケは常、心を純にしておきたいという欲望を持っていたが、心が純なのは、カナの方だった。
 新年明けて、ふたり初詣に行ったときのことだ。神社に向かう道の途中のコンビニエンスストアの道端で、黒い服を着た青年三人が座り込んで話したり、スマートフォンを弄ったりしていた。
 ユウスケはその三人を越して、もうすぐ神社だという所で
「なんだよ、新年早々不良かよ、暇だな」
と言った。即座
「ユウスケ、別にあの三人は不良じゃないと思うよ、そういう決めつけがいけないんだ」
とカナは抗議した。カナは弱者の味方だった。
 神社に着き、ユウスケとカナが願い事をする時になって、ユウスケは、先日決めておいた日々のルーティンをこなしていけますように、に、しようか、今年こそは禁煙できますように、に、しようか、と迷って願い事が中途半端になってしまった。ユウスケはカナに
「なんてお願い事したの?」
と訊くと
「親族みんな幸せでありますように」
と、溌剌と笑って言った。
 カナがからかって、ユウスケの事を坊ちゃんと言ったりするが、それはユウスケの方が五歳若いからだということもあろうが、良い子ちゃんの意味も含めてそう言っていた。
 しかし、ユウスケの心の清さというのは生来、あるものではなくて、自力作善の、それも寧ろ、自分が嫌な気持ちでいたくないからつくろっている、心の清さで嘘っこだった。
真に純粋なのはカナだった。純粋ゆえに、喜怒哀楽激しく、時にユウスケに無茶な要求をした。愚痴も言った。でも、それは心の底からカナが純粋であり、純粋ゆえにそういった暴走をときに起こしてしまうということだった。
 そのことをユウスケはいつの間にやら思いかえしてはカナに
「俺は悪人だ」
と言った。カナはユウスケがまた変な事を言っていると思いそこまで深く追求しなかった。
「悪人なんてことはないでしょ、良い子ちゃんじゃない」
「俺は煙草を喫うぜ」
「やめようとしているじゃない」
ユウスケの目が座っている。
「やめようとしている。禁煙しようとしている。でも、最初の三日で挫折してしまう」
「根性が無いからやめられないわけじゃないのよ、ニコチンの依存のせいよ」
 カナがまた始まったと言わんばかりに言葉を返す。
「なんで煙草なんて悪いものを売っているんだよ?」
「文化的背景が大きいんじゃない?でも最近じゃどこも吸えなくなってきているよね。それに仮によ、煙草が禁止されても、闇で出回るだけよ、いいじゃない、お酒は断つ事ができたんだから」
 カナはユウスケに、煙草を喫ってもいいが、嗜む程度にしなさい、そして喫ってもイチイチ反省しない事、依存性が増すから、と、躾た。ユウスケの喫煙本数は格段に減っていった。しかしそれでもゼロ本にはならなかった。

「お風呂入れるか?」
 ユウスケがカナにそう問うているとき、カナはパソコンで何やら作業していた。
「うん、お願い」
 とカナは答えるが、と言ってそれでもってすぐに風呂に入ることは稀だった。カナは風呂が苦手だった。
 気がつけばどんどん時間だけが経ってゆく。カナはパソコン作業、又は読書だったりするがそれをやめない。湧いた湯も冷えてゆく。
 ユウスケは脳病と言える、統合失調症を患っている。日々、安定して生活する為には、長時間の睡眠が必要だった。つまりカナが風呂に入らない分、ユウスケの入眠が遅くなるわけで、ユウスケは歯がゆい思いをして、カナの文庫本コレクションの中から適当な小説を読むなりしている。
 これはカナの文庫本コレクションでは無かったが、織田作之助著「夫婦善哉」という短編小説にユウスケは痺れた。そして小説を書ける人の頭の中はどうなっているんだろうと思った。
 この日、ユウスケはパソコンで作業しているカナの背の後ろに立って何をしているのですか?と訊いた。
「あ、わからない?小説を書いているのよ」
秘密を言うようにカナは言った。ユウスケはカナのパソコンのウィンドウを覗こうとしたが一言
「駄目、見ないで」
と言われてしまい、つまらなくなってきびすを返すと、風呂を沸かした。そうして、ユウスケ自身は、睡眠薬を飲みこみ、床についた。
 カナが眠るのは大抵、ユウスケの眠った後であったが、朝起きるのはカナの方が早かった。そうして起きると、どんどん家事をこなしてゆく。カナは家事効率を重視する女であった。
 時刻は朝の六時になった。カナはとっくに起きていて、朝食の支度に、洗濯物、ユウスケに出しにいかせるゴミの準備を済ませてしまっていた。
 加えてカナは美容に凝る女であって、洗顔から顔のシミ、ソバカスのチェックから、保湿クリームを塗る所まで、それは時間をかけて行った。
 それが済んでしまうと、一人がさみしいので、ユウスケを起こしにゆく。
 ユウスケもとっくに起きていたのだが、布団の中で、自身の不調について考えを巡らして、もう少し横になっていたいと、目を覚ましたまま、横になっていた。ユウスケとカナの目が合った。
「おはよ」
「ああ、おはよう、カナちゃん」
 ユウスケはこの日朝から不調だった。布団の中で自身の体調について考えている内にも、胃が悪くなっている、という体のサインを受けとっていた。ユウスケは永らく、脳病に加え、逆流性食道炎を患っていた。去年回復したが、今朝はその再発を起こしていた。飯を食べている合間にも、いつもより充分噛んで食べるが、言葉が少なかった。そしてユウスケはカナにタケキャブという逆流性食道炎の薬を要求した。
 カナはユウスケが今朝は煙草を喫っていない、コーヒーも飲んでいないことに気づいていた。
 カナはそんなユウスケに朝のゴミ出しを任せるのが酷だと思ったが、ユウスケは体を動かせた方がいい、と言うので任せた。
 外は寒かった。
 ゴミ集積場へ向かうと、不燃ゴミの袋がうず高く積まれていた。ユウスケは、六時半、こんな時間に、こんなにゴミ袋が集積しているのはおかしいと思った。絶対に、ルールを破って、前日夜に出している、と妙な正義感を抱こうとすると、胃が痛んだ。ユウスケは考えることをやめて、トボトボ、自宅までの道のりを歩いて帰った。
 自宅に戻り、書斎に身を置いたユウスケは暖房を点けた。そしてこんなに胃の不調に悩まされている気を逸らそうと、パソコンでネット・ニュースを眺めたが、集中できず、やめた。
 近くにはカナのノートパソコンが置かれている。昨日カナは小説を書いているらしかった。その内容が気になって仕方なかったが堪えた。すると、カナがやってきて
「ねぇ、S銀行のカード返してないでしょ?」
 と言った。ユウスケが預金から三千円下ろしたっきり、返してなかったのだった。
 カナはこの家庭の家計のすべてを握っていた。家庭は節制につとめていたが、それは主にカナによって行われていた。カナの裁量と能力によって、この家庭の家計はまわっていた。
 しかし節制がガチガチになってくると、ユウスケに不安というか、一種不満めいた気持ちが起きないでもなかった。そもそも、S銀行のカードの名義はユウスケで、ユウスケの障害年金と事業所の工賃が振り込まれる口座のカードだったからだ。
 ユウスケの携帯料金と加えて水道料金、原付バイクの保険料はこの口座からの自動引き落としだった。
 仮に障害年金が二か月十四万円として、その十四万円をすべて別の口座に移し替えられてしまうと、先の携帯料金、水道料金、保険料は残った預金からの支払いとなり、減額してしまう。マイナスになってしまうから、十四万円すべてを移さずに、少額でも、残しておいておかなければならない。しかし、カナの方から一体幾ら、口座に残しておけばいいのか、そういった相談を受けた事は無かった。
 年末年始は、どうしてもお金の出入りが激しいのでいいとして、ユウスケは、二月までにはこの話をカナとじっくりしなければならないと考えた。

 カナは東京にある大学の出であった。それが、不運が重なり、地元N市にユーターンすることになってしまった。カナがユウスケに語る昔話の多くは悲哀に満ちたものだった。
 何より、移動を繰り返す度に人との別ればかりになってしまう。カナは自分から人を切った、というが、あっちへ向かい、こっちへ帰ってきた身は必然的に孤独になると言って差支えがない。
 夫がユウスケならば友人もユウスケで、後はちょこちょこ電話をかける事が、カナにとっての交際だった。
 ユウスケに現代訳源氏物語全十巻を買ってもらった。その一巻を通じた読書体験が、カナの孤独を癒やし、カナを徐々に変えていった。徐々に、というのはなるほど物語というものは遅効性のものらしい。
 しかし源氏物語も、二巻目でその語りに難しさを感じると、読むのをやめてしまった。残りの八巻分も含めて源氏物語は、ユウスケの暇を潰す道具になった。
 その代わりにカナは現代小説を読むようになった。ある日、書店にてカナとユウスケは文庫コーナーをグルグルとまわって品定めしていた。
 ユウスケは芥川賞受賞作、川端康成賞受賞作、などを気にかけながら本を選んでいたのだが、カナは
「ユウスケ、この本の後ろの所に、何刷、って書いてあるでしょう?その数が多いものを選ぶのよ、ロングセラーだし、それ相応の価値があるってもんだわ」
と言ってユウスケに小説を選ぶ心得を教えた。ユウスケは流石、大学出身は違うな、とカナの選んだ本のチョイスを目で追いながら思った。
 そうしてまとまったお金があったので、カナは九冊文庫本を買った。暇を見つけてはその本を読み、ついに読破してしまうと、自然、カナは小説が書きたくなってきた。
 まずはあらましをキャンパスノートに手で書いていった。カナの字は綺麗だった。
 あらましを書いて、加えて謎解きのような引っ掛かりができると、すぐさま、パソコンでWORDを立ち上げて、ガンガンと書いていった。ノートに手で書いたものを、WORDに移し書いてみて、その文面の様相が良いと、カナは嬉しくなった。
 それでもやはり日頃からとても気軽に長電話を掛けられる友人が一人でもいないことには寂しくなったが、だが、もうカナは孤独ではなかった。
 一人炬燵にくるまって、ウトウトしつつも、頭の中では小説の続きはこれでいいでしょうかねぇ、と考えているとき、あの怖ろしい孤独という感情は芽生えていない。そこにはない。
 小説の力はカナを強くした。後はユウスケ同様、日々の暮らしとお金のことである。
「わたし、今年はお金ガチリとしめて、貯めるんだ」
とカナはユウスケに言う。
「そうか、それは頑張りどきだね」
とユウスケが他人事のようにいうから、少し勘に触ったが、流した。

 ユウスケはめっきり煙草とコーヒーを摂ることのできない体になってしまったのか、手を出さず、トイレに何度も入り、常に腹まわりを手でさすっている。
 炬燵に脚を入れて、首をグルグル回すストレッチを行った。そうしている間にカナが冷たい麦茶をコップに注いで持ってきてくれた。
 ユウスケはちょっと考えて
「じゃあカナちゃん、ラジオ体操するか」
「うん、ちょっと待って。いいよ」
 テレビはインターネットが接続してある。動画サイトにアクセスして、「ラジオ体操」を検索して展開した。
 ふたり一生懸命にラジオ体操を行った。これは正月から取り入れた新しい習慣であった。
「今日の予定はなに?」
「今日は、特にはないです」
「一人、散歩に出てもいい?」
「それはどうなの、ユウちゃん、胃を悪くしているのよ。それを呑気に散歩なんかしていていいのかしら。安静に寝てた方がいいんじゃない?」
「それはそうか。しかし逆流性、には運動がいいんだけどなぁ」
 渋々、ユウスケは一階の自室の寝室に向かった。
 カナは炬燵に入りなおすと、本を手に取って、その本の続きを読みはじめた。
 暫く時間が過ぎて、カナは外へ出る準備をしはじめた。近くのドラッグストアに行って化粧品とパスタソースを買いにゆく予定を立てたのだった。
「なに?出掛けてくるの」
階段ですれ違いざま、ユウスケはカナに言った。
「ドラッグストアに行ってくる」
「そうか、気をつけてな」
 ユウスケはその脚でベランダに向かい、マールボロに火を点けて喫ってみた。煙草は健康のバロメーターだと云われる。そうして、やっぱりその煙草は不味かった。
 ベランダからユウスケがふと目をやると、隣の家に猫用の餌が出されていて、もうそれにがっついている大きな猫がいた。
 その大きな猫が去ってから、餌にありつきたいのか、その周囲に二、三匹の猫がいた。
ユウスケが更によく見て見ると、とおくの方に白い猫がいた。体は大きいのだが、どうやら脚を痛めているようで、その順番待ちに加わるのも億劫そうだった。
 ユウスケはいつまでもいつまでも、その状況を眺めていたが、なかなかその白い猫の順番がまわってくる気配が無い。
 そこにカナが帰ってきた。
「おい、カナちゃん、観てみろよ、猫ちゃんがいるよ」
と、その状況を見るようにユウスケが誘うと
「猫ちゃん?いつもいるじゃない、いい、いい、陽が強いし、肌が焼ける」
と返した。このときユウスケはとなりの庭に猫がいることが日常の光景であることを知った。
「白猫ちゃん、いるでしょ?脚の悪い」
「うん、一番とおくで餌の皿眺めているよ、難儀だね」
「可哀想だけれど、自然の摂理なのよ」


 カナが腰痛を悪化させ、布団から出られなくなった。
「駄目ね、あんまり無理しちゃうと。気をつけてはいるんだけど」
 気の強いところを見せることの多いカナだったが、こと布団でいろいろ、体を動かしてはユウスケに弱い所しか見せることができなかった。
 幸い、事業所通所にあたって、ユウスケは休日であった。
 それに、正月用に用意しておいたお餅がたんと残っていた。お餅をレンジにかけて、きなこやあんこにつけて食べる事ならば、流石に料理下手なユウスケといえど、行うことができた。
 しかし、一日でお餅だけでは味気ないと考えたユウスケは、原付バイクを走らせて、カナの好物である、コンビニエンスストアのチキンとミルクティーを買ってきた。本来、家計に請求すべきお金であったが、カナをてこずらせまい、と思って、ユウスケの少ないこづかいから出した。
 そして考えるべきは、明日の朝食のことであった。
 米を炊くことはユウスケにもできた。しかし、いざ米を炊飯器にセットしておこうという段になって、ユウスケの、病気の悪い面が出た。混乱してしまって、どうすれば明日の朝五時丁度に炊けるように予約セットすればいいのか、わからなくなってしまったのだった。
 ええい、ままよ、という事で、その夜の内にユウスケは、早炊きでお米を炊いてしまった。そして、ちょっと時間を空けて、炊いたご飯をラップで包んで、冷蔵庫で保管した。これで明日の朝、電子レンジにかければいい。
 この家庭の朝食は、基本的に白米ご飯に納豆か、卵、加えて焼きウィンナーだった。ご飯がありさえすれば、ユウスケにもウィンナーを焼くことは簡単だった。
 次の日の朝、冷蔵したご飯をレンジにかけて温める。茶碗に移した後、ちょっとほぐしてやる。納豆を小鉢に移しながらユウスケは考えた。この家庭のキッチンには、お膳というものがないのだった。だから、一階寝室で唸っているカナに朝食を運ぶ為には、二往復でもしなければならない。加えてカナが麦茶や、服薬している薬を所望したものだから、ユウスケは朝から何度も、一階と二階を往復することになった。
 事業所への通所はキャンセルの電話を入れて、昼食に、またお餅を出すわけにもいかないので、近くスーパーに買い出しに出た。このときばかりはカナが気を効かせてくれて、家計の財布から二千円、ユウスケに持たせてくれた。ユウスケはそのお金で、天丼とカツ丼を買った。カナが天丼かカツ丼か、食べたい方を選べるように配慮してのことだった。
 カナは天丼を食べ終えると、シャワーを浴びたがった。風呂場も二階にあるので、ユウスケはカナに肩を貸して、階段を昇っていった。
「大丈夫?腰、痛くない?」
「うん、なんとか大丈夫」
 浴室前の洗面所に着くと、カナはへたり込んで座ってしまった。
「大丈夫だから。ここまでこれたら自分でできるから」
と、カナは息を切らしながらユウスケに伝えた。ユウスケはカナのバスタオルが普段どこに収まっているのか知らなかったので、ユウスケのバスタオルを差しだした。下着の場所は流石に訊いた方がいいと思い、カナに訊いて、捜して持ってきた。
 ユウスケは扉の閉まった洗面所の外に腰を下ろし、考え事をした。それは、老々介護をしている祖父のことだった。祖父も祖母の面倒をみていた。将来的にはこれが日常という現実も送らねばならないことを、ユウスケはこのとき初めて覚悟した。
「出たよ、腰ねぇ、お湯をかけたら少し良くなったみたい」
とカナが言った。その台詞を噛みしめて、ユウスケは良かったと思った。


 ユウスケはその晩、ホッケを買ってきてフライパンで焼いた。そしてお味噌汁を作ろうと思ったが、味噌汁の方はその作り方に全く見当がつかない。お湯にだし汁を注ぎ、乾燥ワカメを入れて、味噌をといでいれた。こんな雑な料理で美味しくなる筈はなく、それを飲んだカナは
「このお味噌汁、関東風だね」
と、また当てずっぽうなことを言っていた。

 


散文(批評随筆小説等) 大寒の頃 Copyright 田中教平/Kou 2026-02-03 12:47:18
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