咲子①
たま
咲子 前書き
この小説は、二〇一二年から四年余りかけて書いたもので、原稿用紙枚数で二五〇枚余りあります。物語の内容は、行方不明者となった恋人を探し求める男の話しなので、恋愛小説であることは確かですが、ヒロインの咲子は物語後半にはほとんど登場しません。男の名前は六男といいますが、咲子は(ショウコ)、六男は(リクオ)と読みます。ショウコもリクオも馴染みのない読み方ですが、その秘密は物語のなかにあります。
物語の語り手は六男、つまりポピュラーな一人称となっていますが、舞台は二〇一一年前後の東京または三宅島になります。この物語のテーマは、おそらく『海』だったのだといまになって思いますが、正直に言うといまだに作者の私にもわかりません。
冒頭の『序詩』のイメージはヒロイン咲子ですが、冒頭に咲子のこの詩が生まれたことが、私自身への重荷となって、四年余りもがきつづけたのです。しかし、私の場合はまず詩が生まれてつぎに小説が生まれます。それは、どうしても小説家にはなれない詩人の運命なのかもしれません。
今回、現フォーに掲載するために、思い切って改作することにしますが、なるべく私の重荷をなくす意味で、あまり深く考えないでストーリー、または構成を主に書き改めてみようと思います。
と言っても意味のない作業になりますが、完成から一〇年余りが過ぎた私の現在地を知る上で、なにかしら意味があればうれしいのかなと思います。つまり、書き切れなかった小説の幕を閉じるためにです。
尚、物語のなかで度々引用する咲子の漢和辞典は、旺文社刊「標準漢和辞典」をモデルとし、作中に用いた解説文等は、同じく「標準漢和辞典改訂新版」より、援用させて頂きました。
序詩
海は 海でしかなく
ひとは ひとでしかないはずなのに
黒い波に流されて 沖合に出てみると
なにもかも 忘れ物したみたいで
空っぽになったわたしは
地球ではない地球のどこかへと
まっすぐ 流されて行くのだろうか
それが
あの日の 約束であったとしても
あの日が いつであったのか
だれと交わした約束であったのか
思い出そうとする 意思さえも
海は 拒んで
わたしだけが
流されて行くかもしれない
とおい潮路は でこぼことした
波のうえにあって
とてつもなくおおきな
生きものの 背中であったとしても
尋ねようのない不安は 風にちぎれて
海は 海でしかなく
わたしは わたしでしかないはずなのに
日が射した水平線に
ことばは 生まれて
約束した日の日記とか
忘れ物した日の伝言とかは
もういちど
捨てなければいけないみたいな
兄や妹の くぐもった声が聴こえるから
それはいやだと拒んでみても
いま こうして
意識の片隅で 奪われて行く体温が
あなたのものであったことに
気づいて
わたしは
ようやく
海の正体を知る
咲子(一)
青緑色と呼べばいいのだろうか。
かすかに金の箔押し文字が残るその表紙は、人工皮革の地肌そのままに体温を測ることもできず、海が解けはじめたころの氷河期を生き抜いた、古代人の皮膚のようで、触れるたび、わたしの頬のあたりを汐風がとおりすぎた。
それは、咲子が下井草のわたしのアパートに残して行った古い漢和辞典だった。
表紙をめくると、見返しを兼ねた頁に部首索引がある。一画から十七画まで、画数ごとに廊下があって、それぞれの部首の小部屋がならぶ図表は、高層マンションの見取り図のように見える。その最上階には七部屋あって一画のひとびとが占めていた。
漢字の覚え方はひとそれぞれあっていいとおもう。たとえばわたしは、丘を引く虫と覚えて蚯蚓と書くが、それは、むしへんの部首を持つ漢字であるからできる覚え方だった。むしへんの小部屋は、六画の廊下にあって、七七七と書かれた表札らしきものが見える。それで、本文の七七七頁をひらいてみると一段目に虫部とある。
虫部(むしへん)
▽「虫」をもとにしてできていて、「爬虫類・昆虫類・貝類」などに関係する文字を集めた。
これは部首についての簡潔な解説文であって、それぞれの部首のはじめに記載されているが、仮にあなたが咲子の漢和辞典をひらいたとしても、この文章を読むことはまずないだろう。しかし、むしへんの爬虫類や昆虫類は予見できても、貝類には気づかない。だからこの文章を読むことで、貝類もそのむしへんの仲間であることを意識できることになる。
部首の名称や意味を知ることは、漢字を覚えることの近道であるはずなのに、わたしたちは部首の意味はもちろんのこと、読み方さえろくに知らないまま生きて来たといえないだろうか。このわたし自身も、知らないままに生きたひとりであることはまちがいないが、知らないままに生きた理由をいま問えば、なんとなく、青緑色した古代人の皮膚にたどり着くような気がする。
つまり、漢和辞典の存在を知りながらも、それを手にとってひらいてみようとする意思が希薄であったということ。
そこで、部首索引のある見返し頁をめくってみると、「部首の名称」という頁があって、その頁には一四二個の部首と、その読み方が記載されている。さらに、頁の右肩には、非日常としかいいようのないちいさな文字で、漢字と部首との関係について説明した文章がある。
つい見逃してしまいそうなその文章をよく読んでみると、それは漢字の骨格と、それにぶら下がった内蔵や、皮膚や、顔のかたちさえも知ることのできる、たとえば、幼いころに手にした虫眼鏡みたいな、発見と、よろこびと、安心を与えてくれる文章であることがわかる。
また、部首は漢字の顔を見分けるための、もっとも大切な部分であり、漢和辞典はその顔にたどり着くための、唯一の案内人であることをこの文章は暗示している。おそらく、この文章を見逃すと、漢字の生い立ちにともなう、性格とも素顔とでもいうべき本質を知ることは、かなりむずかしくなるだろうというおもいがする。
その文章をここに引用させていただくが、目的はふたつあって、ひとつは、夢夢(ボウボウ)とした風景のなかの、一遍の詩であるかもしれないこの小説を読み解く、あなたの、聡明な机上を照らす灯りとして。
もうひとつは、充電式のノートブックをひらいて、群青の闇に閉ざされた散文の海で漁をする、このわたしの、姑息な漁り火として。
いずれにしても、アルコールランプのような心許ない灯りではあるが、パンや陶器が火に灼かれて生まれるように、漢字もまた、古代人が灯した火のなかに生まれたことを、あなたはすでに知っているはずだから、わたしはわたしのおもいのままに筆を進めようとおもう。
『部首の名称』
多くの漢字は構造上二つ以上の部分に分けて考えることができる。左右二つに分ける場合はその左の部分を偏、右の部分を旁という。上下二つに分ける場合は、上の部分を冠、下の部分を脚という。これら四つのほかに上から下へ垂れ下がっている部分を垂、下部をぐるりとめぐっている部分を 、全体を包みこんでいる部分を構という。以上七つの部分の中から共通した形を取り出したものが部首である。部首の意味を理解することによって、その漢字のもとの意味を知り、また漢字の表す意味内容がだいたいわかる。
( )内は基本の形。縦罫(――)は画数の切れ目を示す。
口部(くちへん)
▽「口」をもとにしてできていて、「飲食・発声・ことば」などの意味を表す文字を集めた。
昨年のことだった。
下井草のわたしのアパートで、咲子と暮らしはじめたのは七月だったから、すでに半年余りがすぎていた。
六畳一間のワンルームにはセミダブルのベッドが置いてあった。生まれ育った地元の高校を卒業して、コンピューター専門学校に二年通ったわたしが、東京の印刷会社に就職したとき、背のたかいわたしのために両親が買い与えてくれたものだった。小柄な咲子とふたり肩を寄せ合えば、さほどせまくもなく、どちらかといえばちょうど良いひろさだった。
キッチンは畳一畳ほどの板間で、冷蔵庫とガスコンロはあったが、あとは湯沸かし用の手鍋と、いつ使ったかわからないフライパンとか、タイマーの壊れたトースターとか、食べることに無頓着なわたしは、ほとんど自炊なんてしていなかった。
「ねえ、リクオさん。炊飯器ほしいね」
「……炊飯器?」
「あたし、夜は炊きたてのあったかいごはん食べたいし、お弁当もつくりたいの」
「弁当? お昼の?」
「うん、リクオさんとあたしのお弁当……」
「え、ぼくのも?」
「そうよ、愛妻弁当……ね、うれしくない?」
「……うん、いいね、それ」
たしかにそれはうれしいにちがいないけれど、その愛妻弁当を会社の食堂で食べるとなると、かなり勇気がいるとおもった。それにまだ結婚したわけではなかったから、わたしとしてはもう少し先の話しでもよかったのだ。
「それでね、炊事道具はあたしのお給料で買うから、リクオさんは食料品と、ここの家賃払ってね。そしたらさ、もうほとんど新婚さんになるでしょ?」
「え? 新婚さんなの? ぼくたち?」
「ん、もちろんでしょ」
翌日、咲子は炊飯器と弁当箱をふたつ買ってきた。見た目の地味な弁当箱は、よく見るとおそろいの品物だった。
「来月のお給料で、オーブンレンジを買おうとおもうの」
「オーブンレンジ? そんなたかいものはぼくが買うからいいよ。もうすぐ、ボーナス出るしさ」
「わっ、ほんとに? じゃあ、あたし、ホームこたつ買ってくる。ね……いいでしょ?」
「ホームこたつ?……」
咲子はこたつが大好きなんだという。そのちいさなホームこたつは特価品だったらしく、二日後には部屋に届くのだった。
慌ただしい朝のひとときだけエアコンを点けた。
夜はホームこたつのぬるま湯のような暗室で、やわらかくてつるつるした素足と、おおきな爪のごつごつした素足をからめ合った。こたつに入ると落ち着くのだという咲子は、こたつの上に漢和辞典と、リングが背についたノートをひらいて置いた。わたしは十二インチのノートブックを置いて、ふたりは向かい合って座った。まるでふたりして受験勉強をしているみたいで、静かな夜は、新婚さんらしくはなかったけれど、咲子もわたしもそれを好んでいた。
「ねえ、リクオさん……」
「なに?」
「どうしてくちへんだかわかる?」
漢和辞典を手にした咲子の、なぞなぞのような問いかけだった。
「……くちへん?」
「うん、あたしのこと……」
咲子という名は、花が咲くという、うつくしいイメージを持つことはわかるけれど、花が咲くことのどこに口があるのだろうか……咲子はそれを問うているのだった。
国語辞典や広辞苑とかは、新版が出るたびに新語を補充するが、漢和辞典にはまずそれがない。かといって、だれも知らないような故事や、使われなくなった熟語がその使命を終えて、削除されるかというとそれも聴かない。
中国に漢字が生まれたのは四千年余り前のことだという。そうなると、咲子の問いかけは、有に四千年の時をへだてた古代の森からやってくる雨音みたいなもので、その雨音の正体が、故事や熟語だとすると、現代人のわたしにはとらえようのないものでしかない。
しかし、咲子の求める答えが、漢和辞典のなかにあったとしても、発声や、ことばには、咲子のおもい描くイメージが含まれているはずで、そのイメージを共有しなければ、イメージの着地点、つまり、咲子の求める答えにたどり着くことはできなかった。
「口がなかったらキスができないとか……ね? ハズレた?」
着地点にたどり着けないときは、そんなふうにして誤魔化してみたが、わたしにとってもっとも大切な行動は、咲子が放つことばの、色や、かたちや、体温を共有することだった。
「ん、……それも正解かもしれないけど、ね、ここよ。あたしの名前はここにあるの……」
あどけない笑みを浮かべて咲子は、漢和辞典をひらいて見せてくれた。
くちへんの親字がならぶ二五三頁をひらくと、四段目に、【咲】の親字がある。漢和辞典の【 】(すみ付き括弧)に入った漢字を親字というが、シンジではなく素直におやじと読む。
【咲】は常用漢字である。音読みは、ショウ(セウ)。訓読みは、さく・わら-う。意味は、わらう。筆順につづいて解字がある。
解字。形声。口と、音をしめす关(ショウ)とを合わせて、しなをつくってわらう意。のちに、花が開く意に用いる。とあって、次に人名に用いる際の読み方が示されている。
人名。さき・さく
わたしたちはふだん、「花がひらく」とはいわないで、「花が咲いた」もしくは「花は咲く」というが、音読みの咲(ショウ)という漢字には、笑うという意味があって、花は咲くものではなく、花は笑うもの、ということになる。
中国で生まれた漢字は、たった一文字であっても単語であって、咲(ショウ)はあくまでも、笑うという意味でしかないが、もし仮に、「花が笑った」と表現しても、それはそれでとても美しい国語であり、だれもが理解できる詩ではないかとわたしはおもう。
そのことについて、咲子の漢和辞典の巻末にある、『漢字の知識』という付録から一部文章を引用させていただきたい。
『ひら仮名・かた仮名はいわゆる表音文字で、それぞれの文字は一定の発音だけをしめして意味内容を含まないが、これに反して漢字は表意文字とよばれるもので、それぞれの文字が、ある意味内容をもっており、またそれぞれが単語としての発音をもっている。一文字が一語を表すのであるから表語文字といってもよい。このことは漢字を理解し学習する上に特に重要なことがらであって、中国の文化を研究することにおいても、漢字の効用やその将来性を考える上にも見のがすことのできない点である。』
「ね、口がなかったら、笑うこともできないでしょう?」
「なるほど、だからくちへんなんだ……」
「そうよ、キスより大事なものだとおもうの、あたし……」
それで、咲子が放った問いに隠されたイメージの着地点は判明したが、答えはいつも咲子のあどけない笑顔のなかにあって、ことばを交わすという行為は、発声によるイメージの交換であっても、笑顔と笑顔の交換によって着地するもの、または、離陸するものがなければ、その行為はまだ完結していないという気がする。
「でもさ、音読みのショウコはちょっと、ずるいかもしれないよ」
「えっ、ずるいの?……どこが?」
「訓読みのサキコだったらさ、花が咲くんだなってわかるけど、ショウコはさ、翻訳しないと意味がわかんないから、非通知電話みたいでずるいとおもうよ」
「ぶっ! 非通知電話なの? あたしが?」
「そうだよ……なんかさ、隠してるんだよね。隠すつもりはないけど、隠しちゃったみたいな感じかなあ」
「ん……じゃあ、ホンヤクってなに?」
「だって、音読みしたら中国語だろ?」
「ふーん! リクオさんってさ、けっこう理屈っぽいひとね」
「ほらっ、それそれ。ぼくは、む、つ、お、だよ」
わたしの名を音読みで呼ぶのは咲子がはじめてだった。
「うん、わかってるよ。でも、リクオさんはひとりっ子でしょ? だったら、むつおさんはおかしいから、リクオさんでいいとおもうの……それにさ、リクオさんのイメージって、わるくないわよ」
たしかに六男はおかしいとおもう。
「けど……わるくないって?」
「だって、かっこいいじゃない、おとこっぽくてさ。むつおさんなんて、魚の名前みたいでしょう? それも、浅い海で、ちょろちょろしてるやつ……」
「ちょろちょろ? ん……それは余分だとおもうけどなあ。日本中のむつおさんが聴いたらさ、まちがいなく怒るよ」
「うん、たぶんね。でも、さがしたら、ひとりぐらいはリクオさんがいるとおもうわよ……ね?」
「ショウコの仲間が?」
「えっ? そうなの?……わっ、それヤバイかも、あははっ」
この日本のどこかにリクオさんがいることはまちがいないだろう。しかし、そのリクオさんにたどり着くのは、けっこうむずかしいことで、たとえば、漢和辞典を手にとってリクオさんをさがしてみても、ずいぶん苦労することになる。
意外なことに、六の部首は、 部(なべぶた・けいさんかんむり)ではなく、八部(はち・はちがしら)である。
八部(はち・はちがしら)
▽「八」をもとにしてできている文字のほか、「八」を目じるしにして引きやすい文字を集めた。
一七九頁の三段目に【六】の親字がある。
【六】は教育及び常用漢字である。音読みはロク・リク。訓読みは、む・むつ・むっつ・むい。
解字。象形。家の入り口の形にかたどる。数の「ろく」と音が同じであるので、この字を数詞のむつの意に用いる。
つまり、中国から漢字が輸入されたころの日本には、訓読みは存在しなかったということがわかる。ということは、漢字の訓読みは日本人の都合で生まれたわけで、ロクという発音を知って、む、むつ、むっつ、むい、とむすびつき、漢字の六の訓読みになったということになる。しかし、それを翻訳と呼ぶことも可能なわけで、訓読みは日本人の都合のいいように翻訳されたもの、といえないだろうか。漢和辞典をひらいてみると、訓読みのない漢字もあるが、【畑】のように音読みのない漢字もある。それは国字と呼ばれ、日本で生まれた漢字だというが、平仮名や片仮名も漢字から生まれたものだから、そうなると、漢字が輸入される以前の日本人は、文字を持たなかったということになる。果たしてそれでいいのだろうか。
中国の漢字の歴史を遡ってみると、中国古代の甲骨文字にたどり着くことになる。甲骨文字は文字というより記号に近くて、一文字だけで意味を持つものだから、たしかに漢字の母体であるかもしれない。その甲骨文字について、ここで触れると長くなるからあとにして、わたしの名に戻ると、おなじ音読みでも「ロクオさん」だったら、まちがいなくわたしは不機嫌になるはずだ。
つづく