【最近1週間のTOP10】トピックス
室町 礼
①
田中宏輔2さんの『LGBTIQの詩人たちの
英詩翻譯 しょの66』
についてはその"誤訳"の詳細をコメントに書いて
おきましたが、翻訳のことではなくコメントを
書きながら思ったことがこの「トピックス」の
主旨ですが、
でも一応、"誤訳の"詳細を再掲してから本旨を述べたい
と思います。
「コメント」再掲
前からいおうと思っていたのですが、ヒマが出来たので
ひとこと。
"基本的"な語彙の英語翻訳能力が不足しています。
たとえば
"turned their cars in our drive"
ですが、
drive は「運転する」という動詞ではなく、家と公
道をつなぐ私道(driveway)の略称です。
だから
"as my dates turned their cars in our drive"
ぼくの車が、ひとの車を方向転換させた
は、誤りで、
デート相手(彼氏候補)たちが、うちの庭道で
車を回した(バックさせた)とき
が正解です。あるいは、
"I'd balance / I'd whisper"
のwould ('d) は「〜したい」という願望ではなく過去
の習慣(よく〜したものだ)です。
従って、
味わいたいとよく思ってたんだ / ささやきたいと、
いつも思ってた。
は誤りで
(よくそうやって)バランスをとったものだ / (よく
そうやって)囁いたものだ。
が正解です。時制と願望を取り違えています。
他に大事な誤りがいくつかありますが、あとはご自分でどうぞ。
---2026/02/01 09:03追記---
この詩の田中さんによる誤訳によって英詩の解釈に大きな
影響が出ている部分は以下です。これはさすがにわたし一人の手
には終えないのでGemini3の手も借りました。
1. 誰が「聾(つんぼ)」なのか?
翻訳: 「叔母さんの聞こえない耳に、大きな声で言った」
原文の解釈: 「(石像であるマリアの)聞こえぬ耳に向かって、
(声に出さず)口を動かした」
これが重要なのは、語り手の絶望的な孤独を表しているからです。
叔母という「人間」に訴えているのではなく、**沈黙し続ける石
の塊(神の母)**に対し、「孤児が死んだ償いにあなたが置かれ
たというなら、なぜ父はいないの? 奇跡を見せてよ」と、虚無
に向かって問いかけているシーンです。相手が石像だからこそ、
その「沈黙」が際立つのです。
2. 「償い(amends)」の背景
翻訳: 「どうしてか……神の母は庭のなかに置かれたってわけ
だけど」
原文の解釈: 「(叔母が預かっていた子供を死なせてしまった
という)取り返しのつかない罪の償いとして、像が置かれた」
「どうしてか(理由不明)」としてしまうと、この像が持つ禍
々しさが消えてしまいます。このマリア像は単なる飾りではなく、
「死」と「罪」の身代わりとして庭に立っています。その重苦
しい存在(トーテム)と、父を失った子供たちの空虚さが共鳴
しているのがこの詩の核です。
3. 「味わう(taste)」という行為の真実味
翻訳: 「味わいたいとよく思ってたんだ」
原文の解釈: 「(実際に)石膏の味を味わった(舐めた)」
これは「願望」ではなく、**「過去の事実」です。10歳の少女が、
寂しさや割り切れぬ思いから、庭の石像にしがみつき、その背中
のひび割れた石膏を実際に口に含んでいた……という描写です。
「〜したいと思っていた」というマイルドな表現にすると、この
詩が持つ「物への執着」や「生理的なまでの飢え」**という生々
しさが薄れてしまいます。
この詩は、キリスト教的倫理への反抗を描きながらも、その裏側
で「自分と同じ背丈(しょせん等身大のわたしと違わない)、動
かない石の塊」(聖母像)だけが、「舐めたり」
「話しかけたり」できる孤独な少女と同じ意識状態の唯一の伴侶
であり否定すべき存在だったという、美しくも残酷な愛?の詩で
すが誤訳によってそのニュアンスが希薄になっています。
そこでわたしがふと思ったのですがLGBTQの悩みだから何なのだ
ろう? という疑問です。確かにこの詩はわたし個人の心の悩みに
重なるところがあり、性自認の問題ではなく普遍的な孤独や孤立の
問題として深く心に刺さるものがあり、一気に愛着を覚えた詩です
が、この二千年、知性は知の複雑で深刻な悩みを特権的になにか庶
民大衆の悩みに比べて高級なもののように語り継いで来ました。し
かし、例えば保険セールスマンやレストランの接客業の人の日々の
仕事上の悩み=軋轢、矛盾、格差、貧困などの悩みとどう違うのか?
大衆の通俗的な悩みと質も量も変わらないのに、なぜ観念的な悶々
だけが、なにか高尚で深刻な悩みのように扱われてきたのか、それ
が解せなくなりました。ある詩の大家は歌謡曲を心の底から侮蔑す
るような発言をしましたが、尊敬する詩人でしたが、今、いや、そ
れは違うぞ思い始めています。根本的にそれほど現代詩と変わらな
い価値があるぞと思い始めています。この詩はLGBTQなんか関係な
いんです。レスビアンの気質のあるこの作家は関係あると思ってい
るかもしれませんが、こんなものは人類生誕以来の普遍的な悩みで
す。屋台のたこ焼き屋の兄ちゃんがタコを裏返すときの所作の陰で
抱いている心の葛藤と少しも違いなどありません。こんな詩の語り
をなにか文学の特権的な美学のように考えているとすればかなり遅
れているのじゃないかと思います。
②
※付録
もうひとつ、洗貝新さんの『不可逆的な変化』
という詩、これはあまりにもひどすぎます。
タイトルがあまりにも、ジャーナルに手垢のついたものですし、そ
の概念もあまりにもクリシェなもので、詩人として、それを感じと
れないのが恥ずかしいレベルです。
だれもいないディスプレイを眺めて
だれとでも会話できるわたしはいない
時間という記憶だけが過ぎている
だれもがいる夢の中で
昭和歌謡曲に頻出した通俗的な狎れた感情をただそのままコピー
しているのですが、こんなもの読んでイイネした方々は、いったい
詩ってものをなんと心得ているのでしょうか?
人為的に造り替えてきた
もはや自然はどこにもないのだ。
我々は熊とは共存できない
合成された化学物質のすべてが
我々から自然に抗うことを退けた
空も
海も
山も
風も
大地でさえ
我々の目の前ではひとつのモニュメントなのだ。
そんなもの小学生だってわかっているし感じている。
だからこのようにはそのまま書かないでそれぞれの独自なことばで
書いているのに、いい大人がなにこれ?
こんなもの読んでイイネした方々は、いったい詩ってものをなんと
心得ているのでしょうか?
ディスプレイの中に映し出される景色の中で
わたしはだれとでも会話できる
見たことのある羽根を広げて
幹の上からわたしに話しかけてくる
どこにでもある貝殻を拾う
もう、
後戻りはできない
最後の「もう、後戻りはできない」まで、ベタベタの手垢にまみれた
ことばで、あたりまえのはなしで、だからどうしたの?と返されない
ための詩的技巧もなにもないというお粗末さ。
こんなもの読んでイイネした方々は、いったい詩ってものをなんと
心得ているのでしょうか?
現フォのトップ10は通りすがりの閲覧者はイイネできないからどうし
ても身内の挨拶返しになりがちですが恥ずかしくないのでしょうか?