すすき野原の物語(はかりしれない郷愁)
板谷みきょう
村が「清潔な沈黙」に包まれてから、長い年月が流れました。
かつて野原で叫んでいた少女も、
冷酷な釘を打った大工も、
皆この世を去りました。
残されたのは、すすきに埋もれ、
誰からも忘れられた役目を失った「祠」と、
それを迷信だと笑う新しい時代の空気だけでした。
そこへ一人の男がやってきます。
近代という名の光を背負った、民俗学者です。
彼は、最新の機材を抱え、野原を数字に変換しようとしました。
[鬼とは、共同体が抱えきれなくなった罪悪感の投影である。]
[祠とは、不安を管理するための心理的装置である。]
民俗学者の書く論文は、かつて大人たちが恐れた影を、
解剖した死体のように冷たく切り分けていきました。
彼は、子供たちが境界を越えたという証言さえも
「未発達な認知による誤認」と断じました。
彼の目には、すすき野原はただの「地形」であり、
風はただの「気象現象」にすぎませんでしたから。
しかし、調査の最終日。
学者は、かつて祠が建てられたその場所、
いまや朽ち果てて倒壊しそうな木箱の前に立ちました。
風はありませんでした。
空は抜けるように青く、計器は「異常なし」を示し続けていました。
にもかかわらず、彼の指先が、突如として激しく震え始めました。
「……書けない。」
学者はペンを落としました。
彼の耳に届いたのは、風の音ではありませんでした。
それは、かつて少女が奪われた「本当の名前」を呼ぶ、
あの灰色の影の“懐かしすぎる声”なのでした。
その声を聞いた瞬間、学者は自分自身が何を失ったのかを突きつけられました。
彼もまた、かつて子どもであり、
野原に“何か”を置いてきたはずの一人だったのです。
“知性”という鎧を着込み、“合理”という盾で守り固めた自分の心の内側に、
今もなお「名付けられる前の孤独」が、幼い日の自分の姿をして座っていることに、
彼は、気づいてしまいました。
「鬼はいなかった、と書かねばならない。だが、いなかったと断定するには、この風が、あまりにも……私に近すぎる。」
民族学者はその夜、書き上げた論文をすべて引き裂きました。
学問とは、世界の輪郭を固定し、意味を与える「名付け」の作業です。
それはかつて村長たちが祠に釘を打った行為と同じであると、彼は悟ったのです。
学者は村を去りました。
彼のカバンの中には、調査報告書の代わりに、野原の隅で見つけた一枚のクヌギの葉だけが大切にしまわれていました。
彼は生涯、その調査結果を発表することはありませんでした。
ただ、晩年の彼が遺した日記の最後には、
震える文字でこう記されていました。
[学問は、扱えないものを切り落とすことで前へ進む。
だが、切り落とされた欠片こそが、私が子どもの頃に愛し、
そして失くした『私自身』であったのだ。]
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童話モドキ