Notes on The Wasteless Land.Ⅱ
田中宏輔2
II. You do not know what you are asking.
第Ⅱ章のタイトルは、MATTHEW 20.22 "You do not know what you are asking."(マタイによる福音書二〇・二二、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。」)より。
第一連・第二一―三五行 ハンカチに関する記述は、つぎの文献による。冨山房『英米故事伝説辞典』 handkerchief の項、学習研究社『カラー・アンカー英語大事典』 handkerchief の項、小学館『万有百科大事典』ハンカチーフの項、平凡社『大百科事典』ハンカチーフの項。
第一連・第三七―三八行 本文で言及している、スタンダールの文章とは、「さあ書けたよ。地下道が敵に占領されないか心配だわ。早く机の上にある手紙をもって、ジュリオさまに渡してきておくれ。お前自身がだよ、わかって。それから、このハンカチをあのひとに渡して、いっておくれ。わたしはあのひとを、いつのときも愛していました、そして少しも変らず今の瞬間も愛していますって。いつのときもだよ、忘れるのじゃないよ!」(『カストロの尼』七、桑原武夫訳)のこと。
第三連・第三―四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一五六行、「私には黒い尨犬しか何も見えませんが。」より。
第四連・第三行 「おれがあんなに大事に思って、お前にやったハンカチを/おまえはキャシオウにやった。」(シェイクスピア『オセロウ』第五幕・第二場、菅 泰男訳)より。なお、第Ⅱ章・第四連の注解では、シェイクスピアの『オセロウ』からの引用はすべて菅 泰男訳であるので、以下、第Ⅱ章・第四連の注解では、『オセロウ』の翻訳者の名前は省略した。
第四連・第五―七行 シェイクスピアの『オセロウ』第三幕・第三場に、「苺の刺繡をしたハンカチを奥様がおもちになってるのを/ごらんになったことはありませんか?」、第三幕・第四場に、「あのハンカチは/あるエジプトの女から母がもらったのだが、/それは魔法使いで、人の心をたいていは読みとることが出来た。/その女が母に言ったということだ──これをもっている間は、/かわいがられて、父の愛をひとり/ほしいままに出来るが、万一これを失うか、/それとも人に贈るかしたら、父にいとわれ/嫌われて、父の心はよそに移り/新しい慰みを追うようになろうぞ、とな。母はいまわの際に、それをおれにくれて、/おれが妻をめとることになったら、それを妻にやれと/言った。おれはその言いつけ通りにしたのだ。」、第五幕・第二場に、「ハンカチです。わたしの父が、その昔、母にやった/古いかたみの品なのです。」とある。一つのハンカチをめぐる二つのセリフのあいだに、ちょっとした矛盾が見られるが、劇の進行上、問題はない。ご愛嬌といったところだろうか。ところで、岩波文庫の『オセロウ』の解説のなかで、菅 泰男は、十七世紀末に、トマス・ライマーが、シェイクスピアの『オセロウ』のことを、「血みどろ笑劇」とか「ハンカチの喜劇」とか言って批判したことを紹介しているが、菅 泰男はまた、英宝社の『綜合研究シェイクスピア』のなかでも、「シェイクスピア批評史・1・十七世紀」のところで、ライマーの批判について、つぎのように言及している。「新古典主義の影響の著しい王政復古期には、イギリスでもシェイクスピアを完全にやっつけたものがあった。トマス・ライマー(Thomas Rymer, 1641-1713)という好古家は1678年と1693年に二つの悲劇論を書いて、イギリス人もギリシャの古典作家の基礎に立つべきであったと論じ、イギリス劇を手ひどく非難した。殊に後の著で『オセロ』をやっつけたのは有名である。この劇は「ハンカチーフの悲劇」だと彼はきめつける。「この芝居には、観客を喜ばせる、いくらかの道化と、いくらかのユーモアと、喜劇的機知のヨタヨタ歩きと、いくらかの見せ場と、いくらかの物真似とがある。が、悲劇的な部分はあきらかに味も素気もない残忍な笑劇にすぎない」と言う。」と。T・S・エリオットも、『ハムレット』という論文の原注に、ライマーの批判について、つぎのように書きつけている。「私はトマス・ライマーの『オセロ』非難にたいする確固たる反駁をまだ見たことがない。」(工藤好美訳)と。アガサ・クリスティーもまた、自分の作品のなかで、主人公のポアロに、シェイクスピアの『オセロウ』について、つぎのように批判させている。「イアーゴは完全殺人者だ。デズデモーナの死も、キャシオーの死も──じつにオセロ自身の死さえも──みなイアーゴによって計画され、実行された犯罪だ。しかも、彼はあくまで局外者であり、疑惑を受けるおそれもない──はずだった。ところがきみの国の偉大なシェイクスピアは、おのれの才能ゆえのジレンマと闘わなければならなかった。イアーゴの仮面を剥ぐために、彼はせっぱつまったすえなんとも稚拙な工夫──例のハンカチ──に頼ったのである。これはイアーゴの全体的な狡智とは相容れない小細工であり、まさかイアーゴほどの切れ者がこんなヘマをしでかすはずがないと、だれしも思うに違いない。」(『カーテン』後記、中村能三訳)と。
第四連・第八―六八行に出てくる人物についての注解 マルト、ジャックは、ラディゲの『肉体の悪魔』(新庄嘉章訳)から。名前の出てこないマルトの新しい恋人も、『肉体の悪魔』の主人公を参考にした。この主人公は、「『悪の華』を愛誦(あいしよう)して」おり、「マルトに『言葉』紙のコレクションと『地獄の季節』を次の木曜日にもって行こうと約束した」。彼は、マルトが「ボードレールとヴェルレーヌを知っていることをうれしく思い、僕の愛し方とは違うけれども、彼女のボードレールを愛するその愛し方に魅惑された」のだという。シュトルムの『みずうみ』(高橋義孝訳)からは、ラインハルトの名前を拝借した。エリーザベトは、このラインハルトの幼なじみのエリーザベトと、コクトーの『怖るべき子供たち』(東郷青児訳)の主人公の姉、エリザベートから拝借した。アガート、ジェラール、ダンルジェロの三人の名前も、『怖るべき子供たち』から。
第四連・第二三行 「女主人はエリザベートの美しさに驚いた。残念なことに売り子の資格はいろいろの外国語を知っていなければならない。彼女はマネキンの職しか得られなかった。」(コクトー『怖るべき子供たち』一、東郷青児訳)より。
第四連・第四七―四八行 シュトルムの『みずうみ』の「森にて」の場面から。苺の下に敷くのに拡げられたハンカチから、シェイクスピアの『オセロウ』に出てくる、イチゴの刺繍が施されたハンカチを連想されたい。ちなみに、イメージ・シンボル事典によると、イチゴは、愛の女神や聖母マリアのエンブレムであるという。