Notes on the Wasteless Land.Ⅰ
田中宏輔2
この詩は、題名のみならず、その形式や文体も、また、この詩に引用された詩句のうち、そのいくつかのものも、西脇順三郎によって訳された、T・S・エリオットの『荒地』に依拠して制作されたものである。西脇訳の『荒地』を参照すると、まったく同じ行数でこの詩の本文がつくられていることがわかる。また、この詩の主題は、全面的にゲーテの『ファウスト』に負っている。ほかにも、さまざまな文章や詩句から引用したが、本作の文脈や音調的な効果、あるいは、視覚的な効果のために、それらの言葉をそのまま用いるだけではなく、漢字や仮名遣いなどを改めたところもある。それらの仔細については、以下の注解に逐一述べておいた。ただし、西脇訳の『荒地』からのものは、とくに指摘しておかなかった。じっさいにそのページを開けば、どこから、どう引用しているのか、一目瞭然だからである。それにまた、エリオットの『荒地』のもっともすばらしい翻訳を傍らに置いて、この作品を味わっていただきたいという気持ちからでもある。
エピグラフは、メルヴィルの『白鯨』78(幾野 宏訳、二重鉤及び読点加筆)より。各章のタイトルは英訳聖書からとった。各章の注解の冒頭に、日本聖書協会による訳文を掲げておいた。
I. Those who seek me diligently find me.
第I章のタイトルは、PROVERBS 8.17 "those who seek me diligently find me."(箴言八・一七、「わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」)より。なお、日本聖書協会が訳した聖書からの引用では、訳文に付されたルビを適宜省略した。
第一連・第七行 吉増剛造『<今月の作品>選評17』ユリイカ一九八九年七月号、「今月は選者も、少し心を自在にして(戒厳軍のようにではなくさ、……)」より。
第一連・第九行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典、「It rains buckets.(米)どしゃ降りだ。」より。(米)は、アメリカ英語の略。日本語の文を引用する際に、ピリオドを句点に改めた。以下、同様に、横組みの参考文献を用いるときには、日本語の文や語句にあるコンマやピリオドを、それぞれ読点と句点に改めて引用した。
第一連・第一七行 サルトルの『一指導者の幼年時代』中村真一郎訳、「彼は小さかったときに、母親がときどき、特別な調子で、「お父さま、書斎でお仕事よ」と言ったのを思い出した。」より。
第一連・第一八行 スミュルナを、教養文庫のギリシア神話小事典で引くと、「別名ミュラといい、フェニキアの王女。父のキニュラスに欲情をいだき、酒を飲ませて酔わせ、彼女が自分の娘であることを父に忘れさせた。スミュルナが身ごもると父は父子相姦の恐ろしさに狂い、スミュルナを森の中まで追いかけ、斧で殺した。」とある。呉 茂一の『ギリシア神話』第二章・第六節・ニには、「ズミュルナは、はじめアプロディーテーへの祭りを怠ったため女神の逆鱗にふれ、父に対して道ならぬ劇しい恋を抱くようにされた、そして乳母を仲介として、父を誑き、他所の女と思わせて十二夜を共に臥したが、ついに露見して激怒した父のために刃を以て追われ、まさに捕えられようとした折、神々に祈って転身し、没薬の木に変じた」とある。
第一連・第二〇行 本文で言及しているお話とは、創世記・第十九章のロトと二人の娘の物語である。妻を失ったロトは、二人の娘とともに人里離れた山の洞穴の中に住んでいたのであるが、娘たちが、前掲のスミュルナと同様に、父に酒を飲ませて酔わせ、ともに寝て、子をはらみ、出産した、という話である。近親相姦といえば、オイディプスの名前が真っ先に思い出されるが、彼が自分の母親と交わってできた娘の数も二人である。また、箴言三〇・一五にも、「蛭にふたりの娘があって、/「与えよ、与えよ」という。」とある。ソポクレスの『コロノスのオイディプス』にも、「二人の娘、二つの呪いは……」(高津春繁訳)とあるが、イメージ・シンボル事典を見ると、2は「不吉な数である。」という。「ローマにおいては2という数は冥界の神プルトンに献ぜられた。そして2月と、各月の第2日がプルトンに献ぜられた。」とある。
第一連・第二一行 ヴァレリーの『我がファウスト』第三幕・第三場に、「何か本がないかしら……。考えないための本が……。」、「何か本が欲しい、自分の声を聞かないための本が……。」(佐藤正彰訳)とある。ふつうは、読むうちに自分のことを忘れてしまうものである。自分のことを忘れるために、と意識して読書するというのは、ふつうではない状況にあるということである。仕事や雑事に多忙な人間ではない。そうとう暇のある人間でなければ、それほど自己に構うことなどできないからである。この連に出てくる女性が、そういった状況にある人間であることは言うまでもない。なんといっても、毎晩のように、返事の来るはずもない手紙を、長い長い手紙を、本のなかの登場人物たちに宛てて、何通も書くことができるくらいなのだから。ちなみに、彼女がこの日の夜に読んでいたのは、シェイクスピアの史劇の一つであった。彼女は、つぎに引用するセリフに、長いあいだ、目をとめていた。「思いすごしの空想は必ず/なにか悲しみがあって生まれるもの、私のはそうではない。/私の胸にある悲しみを生んだものは空なるものにすぎない、/あるいはあるものが私の悲しむ空なるものを生んだのです。/その悲しみはやがて本物となって私のものとなるだろう。/それがなにか、なんと呼べばいいか、私にもわからない、/わかっているのは、名前のない悲しみというにすぎない。」(『リチャード二世』第二幕・第二場、小田島雄志訳)、この言葉が、彼女を魅了するように、筆者をも魅了するのだが、はたして、読書人のなかで、こういった言葉に魅了されないような者が一人でも存在するであろうか。そうして、この日の夜も、彼女は、自分の声を聞きながら、リチャード二世の妃に宛てて、長い長い手紙を書いて、一夜を明かしてしまったのであった。
第二連・第一行 fogは、「(精神の)困惑状態、当惑、混迷」を表わす。in a fog で、「困惑して、困り果てて、途方にくれて」の意となる。以上、三省堂のカレッジクラウン英和事典より。また、「霧があるので一そう暗闇が濃くなっているんです。」(ゲーテ『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九四〇行、相良守峯訳)という文も参照した。なお、ゲーテの『ファウスト』からの引用はすべて相良守峯訳であるので、以下、『ファウスト』の翻訳者の名前は省略した。
第二連・第三行 ダンテの『神曲』地獄・第一曲・第一行、「われ正路を失ひ、覊旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき」(山川丙三郎訳)、同じく、ダンテの『神曲物語』地獄篇・序曲・第一歌、「ここはくらやみの森である。」、「三十五歳を過ぎた中年の詩人ダンテはその頃、人生問題に悩み深い懐疑に陥っていたが、ある日散歩をしているうちに、偶然このくらやみの森の中に迷いこんでしまった。」(野上素一訳)より。
第二連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第二幕・第七八一三行、「この険阻(けんそ)な岩道」より。
第二連・第七行 カロッサの『古い泉』藤原 定訳、「古い泉のさざめきばかりが」より。
第二連・第九行 出エジプト記・第一七章に、エジプトから逃れて荒野を旅するイスラエル人たちが、飲み水がなくて渇きで死にそうになったとき、神に命じられたモーセが、ナイル川を打った杖でホレブの岩を打つと、そこから水が出た、と記されている。
第二連・第一〇行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第四七一六行、「岩の裂目(さけめ)から物凄じくほとばしる」、第二部・第四幕・第一〇七二〇―一〇七二一行、「乾いた、禿げた岩場に、/豊富な、威勢のいい泉が迸り出る。」より。
第二連・第一四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九九五行、「岩の割目(われめ)から呼んでいるのは誰だ。」、講談社学術文庫の『古事記』(次田真幸全訳注)中巻・一八八ページにある、杖は「神霊の依り代である。これを突き立てるのは、そこを領有したことを表わす。」という文章より。
第二連・第一五行―一八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五八九八-五九〇一行。
第二連・第二八行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九〇七行。
第二連・第三二行 三省堂のカレッジクラウン英和辞典に、「bibliomancy 聖書うらない(聖書を任意に開き、そのページのことばでうらなう)」とある。
第二連・第三四行 詩篇八一・一六、句読点加筆。
第二連・第三六―四二行 「わたしはアンフィダのそばに、美しい女たちが降りてくる井戸があったことを思い出す。ほど遠からぬところには、灰色とばら色の大きな岩があった。そのてっぺんには、蜜蜂が巣くっているといううわさを聞いた。そのとおりだ。そこには無数の蜜蜂がうなっている。彼らの蜜房は岩の中にある。夏になると、その蜜房は暑さのために破裂して、蜜を放り出し、その蜂蜜が岩にそって、流れ落ちる。アンフィダの男たちがやって来て、この蜜を拾いあつめる。」(ジイド『地の糧』第七の書、岡部正孝訳)より。なお、ジイドの『地の糧』からの引用はすべて岡部正孝訳であるので、以下、『地の糧』の翻訳者の名前は省略した。
第二連・第四三―四四行 土師記一四・八、「ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。」、ゲーテ『ファウスト』第二部・第三幕・第九五四九行、「洞(ほら)になった木の幹からは蜂蜜が滴る。」より。
第二連・第四七―四九行 筆者の一九九八年七月九日の日記の記述、「三省堂のカレッジクラウン英和辞典を開くと、burail 埋葬、burier 埋葬者、burin 彫刻刀、とあって、そのつぎに、固有名詞の Burke が二つつづき、burke 葬る、押える、とあり、さらに、末尾には、[William Burke (人を窒息死させてその死体を売ったため一八二九年、絞首刑に処せられたアイルランド人。)]と載っていた。」、一九九八年八月二十二日の日記の記述、「岩波文庫の『ことばのロマンス』(ウィークリー著、寺澤芳雄・出淵 博訳)の索引で、Burke を引くと、p.90 に、固有名詞からつくられた動詞の例として、burkeが挙げられていた。本文―→アイルランドのバーク(William Burke)は、死体を医学部の解剖用に売り渡すために多くの人々を窒息死させた廉(かど)で、1829年エディンバラで絞首刑に処せられた。この動詞は、現在では「(議案などを)握りつぶす、もみ消す」の意に限られているが、十九世紀中葉の『インゴルズビー伝説』では、まだ本来の意味「(死体をいためないように)扼殺する」で用いられている。」より。なお、七月九日の日記の余白に、朱色の蛍光サインペンで、「corpus=作品、死体」と書き加えてあったが、いつ書き加えたのか、正確な日付は不明である。しかし、William Burke からWilliam Blake を連想したときのことであろうから、本文の作成に入ったごく初期のころ、だいたい同年七月中旬から八月上旬までの間のことであろうと思われる。死体づくりに励んだ William と、作品づくりに励んだ William。二人が、名前だけではなく、corpus という単語でも結びつくことに、気がついた、ということである。
第三連・第一行 ROMA,CITTA,APERTA(邦題『無防備都市』)は、ロベルト・ロッセリーニ監督による、一九四五年制作のイタリア映画。
第三連・第二―四行 教養文庫の『ギリシア神話小事典』に、アルテミスは「月の女神」とある。また、マラルメが一八六四年十月にアンリ・カザリスに宛てて書いた手紙にある、「月光のもと、噴水の水のように、あえかなせせらぎと共に真珠(たま)となって落下する蒼い宝石だ。」(松室三郎訳)という文も参照した。イメージ・シンボル事典によると、真珠は、「愛および月の女神達の表象物」であるという。ちなみに、本作の第∨章の注解に出てくるヘラクレイトスは、「『自然について』と題する一連の論考から成っている」「書物を、アルテミスを祠(まつ)る神殿に献納した」(岩波書店『ソクラテス以前哲学者断片集』第I分冊第Ⅱ部・第22章、三浦 要訳)という。
第三連・第五―九行 「「雨でも平気なの?」/「別に、地下鉄まで遠くはありませんし……」/「スーツが濡れるわよ」/「通りにばかりいるわけではありませんわ、私たち、映画にも行くし……」/「誰なの、『私たち』って」」(モーリヤック『夜の終り』I,牛場暁夫訳)より。
第三連・第二一行 ある詩人の作品とは、ボードレールの『美女ドローテ』(三好達治訳)のこと。
第三連・第二四行 呉 茂一の『ギリシア神話』第一章・第五節・一、「いつかもう九つの月がたったある日、アルテミスは森あいの池で、暑さをしずめに自らも沐浴し、伴のニンフたちにも衣を脱いで沐浴させた。そして羞じらいに頬を染める少女も、強いて仲間入りをさせられたのであった。その姿を見ると、(きっと連れのニンフたちが、おそらくは嫉みと意地悪と好奇心から、叫び声を立てたであろう)、アルテミスは、美しい眉を険しくひそめて、決然とした語調で叫んだ。「向うへ、遠くへいっておしまい。この聖らかな泉を、汚すのは私が許しません。」」より。