私たちは、いったい誰のために貧しいのか? 
atsuchan69

日本は長く「豊かだった時代は終わった国」と語られてきた。だが、この物語は事実の全体像を示してはいない。視点を少し変えて数字を見るだけで、別の風景が現れる。

日本の個人金融資産は約2200兆円に達し、金融・保険業を除く全産業でも、企業の利益剰余金は約600兆円に積み上がっている。さらに日本は、世界最大規模の対外純資産を保有する国でもある。国全体として見れば、日本は「お金がない国」ではない。むしろ、すでに積み上がったお金、いわゆるストックは過剰なほど存在している。

それでも多くの人が貧しさを実感しているのはなぜか。私たちが日々触れているのは、給料や年金、物価といった毎月動くお金、つまりフローだからだ。日本ではこのフローが長年にわたり抑え込まれてきた。一方で、企業や資産家の側にはストックが着実に積み上がり続けている。

問題は、ストックとフローという二つの現実が同時に存在しているにもかかわらず、語られるのが常に「給料が上がらない」「成長できない」というフローの話だけだという点にある。ストックの豊かさは、ほとんど可視化されない。

この構造を理解するには、日本の支配層の連続性に目を向ける必要がある。

加えて見逃せないのが、円安と金融政策の問題である。長期にわたる超低金利と大規模な金融緩和は、景気を下支えする政策として説明されてきた。しかしその副作用として、円安が常態化し、実質賃金は押し下げられた。輸入物価の上昇は生活を直撃する一方、海外売上を持つ大企業や投資家にとっては利益を拡大させる条件となった。

円安で潤うのは、すべての企業や国民ではない。外貨建てで収益を得る輸出大企業、海外資産を保有する投資家、円安局面で株価上昇の恩恵を受ける層に利益は集中する。一方で、輸入に依存する中小企業や家計は、物価高という形で確実に負担を強いられる。円安は「国全体のための政策」として語られがちだが、実際には利益と損失の配分を大きく歪める装置として機能してきた。

この歪みは、政治と無関係ではない。歴代の政権は、円安と金融緩和を成長戦略として称揚し、株価や企業収益の改善を成果として強調してきた。だが、その背後で誰の生活が圧迫され、誰の資産が増えたのかについて、正面から語られることは少なかった。政治家は「市場が決めた」「日銀の判断だ」という言葉で距離を取りながら、結果として特定の層に有利な政策環境を維持してきたのである。戦前には財閥と呼ばれる巨大資本が存在し、戦後に形式上は解体されたが、企業、人脈、資産の中核は形を変えて存続した。また、それ以前から続く特定の家柄や名家も、政治や経済の深部と結びつきながら影響力を保ってきた。ただし、こうした事実は今なお断片的にしか語られない。

その理由の一つが、マスコミの果たしてきた役割である。戦後のマスコミは権力監視を掲げながらも、経済構造そのものより、事件や不祥事、わかりやすい対立構図を優先的に報じてきた。企業の内部留保や富の偏在は、個別の話題としては取り上げられても、社会全体の構造として継続的に掘り下げられることは少なかった。

代わりに強調されてきたのは、「国際競争に負ける日本」「外圧に苦しむ日本」「危機にさらされる日本」といった物語である。問題の原因は外部や時代の流れに帰属され、国内の配分構造への視線は意図せずとも弱められてきた。

戦争や大規模な危機は、この物語をさらに強化する。非常時には「まず耐えよ」「今は分配の話をする時ではない」という空気が広がり、富の所在や再配分の議論は後景に退く。その一方で、復興や再建の名のもとに、特定の企業や資本に新たな利益機会が生まれる。焼け野原は悲劇であると同時に、誰かにとっては巨大なビジネスチャンスでもある。

SNS時代になって、この構図は終わるどころか、むしろ巧妙に延命している。テレビや新聞が作った単純なフレーズは切り取られ、拡散され、アルゴリズムによって増幅される。感情を刺激する言説ほど広まりやすく、複雑な構造分析は届きにくい。

この過程で目立つのが、いわゆるネット上の「工作員」の存在だ。必ずしも組織的な陰謀を想定する必要はない。外敵や危機を強調し、分配や構造の話を「非現実的」「空気が読めない」と切り捨てる言説が、半ば自動的に量産される。マスコミが用意した枠組みは、SNS上で自律的に再生産されていく。

結果として、人々はフローの停滞だけを日々確認し続ける一方、ストックの存在や配分の問題に到達する前に、怒りや不安の消耗へと導かれる。視線は外に向かい、内部の構造は見えないまま残る。

この傾向は、文芸の世界にも及んでいる。詩誌や詩人たちは、社会から距離を取り、内面や言語の純度を守ることを選んできた。しかしその結果、現実の構造から切り離された小さな共同体の内部に閉じこもる「籠モル化」が進んだ。社会の不均衡を正面から語る言葉は弱まり、詩は安全な沈黙へと傾いていった。

詩が無力なのではない。語るべき現実から距離を取り続けた結果、届く範囲が自ら縮小してしまったのである。マスコミの物語が社会を覆い、SNSがそれを反復する中で、詩は対抗言語になりきれなかった。

日本社会に存在するのは、「国は実は豊かだ」という事実と、「多くの国民は苦しい」という実感の同時成立である。これは矛盾ではない。豊かさをストックとして見えない場所にため込み、その存在を語らせない一方で、生活に直結するフローだけを細く管理することで成り立っている社会の姿だ。

貧しさは自然現象ではない。誰かが作り、配信し、反復してきた物語の結果である。いま問われているのは、誰がその物語を作り、誰がそれを広め、そして誰が沈黙してきたのか、という一点に尽きる。

さらに付け加えなければならないのは、この構造が将来に向けた警告でもあるという点だ。この国の支配者層がさらに富を得るため、外圧や侵略を強調し、国民の不安を煽ることで、誰も望まなかった戦争や恒常的な緊張状態へと社会を導く危険性は決して消えていない。危機が叫ばれるほど、「今は耐えるしかない」という空気が広がり、分配や責任の議論は封じられる。その結果、犠牲は広く国民に分散され、利益は再び限られた側へと集積していく。




散文(批評随筆小説等) 私たちは、いったい誰のために貧しいのか?  Copyright atsuchan69 2025-12-13 13:50:23
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