ちち
凍湖
あれは中学生のころだったか
母に連れられ下着屋に行き
子どもには不釣り合いなほど立派な刺繍の入った下着を
母は子に買い与えた
そんなものより
質素なスポーツブラがよかったのだが
わたしに一人用のベッドが与えられたのはいつだったか
まだ母と同じ布団で眠っていたころ
母はわたしに
わたしの乳を吸わせてほしいと言った
わたしが赤子を産んだら
おまえの乳を吸いたいと
おまえはわたしの乳を吸って育ったのだから返しなさいと
ちち、という音は父を思い出させるが
その肉の感触は母のやわらかい支配と侵入を思い出させる
オペを前に
ひとり暮らしの小さな風呂場
冷めていく湯船のなかで
おのれの乳房をそっとゆすった
もうすぐなかみをかきだして
平らかになるはずの胸
いちども母乳を分泌することなく消えていく乳腺
そのための準備を数年かけて行ってきた
麻酔から醒めると
アイドルが同じ手術をしたとニュースになっていた
ひとの胸に幻想を投影し騒ぐ世間をみて
ああ、別れてよかったと心の底から思った
わたしの胸にはもはやなにもつまってなかった
それが心地よかった
ちちとちの支配から逃れて
この平らかな皮膚はわたしだけの凪なのだ
しずかな夜の訪れだった