The Wasteless Land.
田中宏輔2



Contents

I.  Those who seek me diligently find me.
II. You do not know what you are asking.
III. You shall love your neighbor as yourself.
IV. It was I who knew you in the wilderness.
V. Behold the man!





『オハイオのある蜂蜜(ほうみつ)採りの快美な死にかただ。その男は空洞になったまたのところに、探し求める蜂蜜がおびただしくたくわえられているのを発見し、思わず身を乗り出しすぎて、そのなかへ吸いこまれ、そのままかぐわしい死を遂げたという。』





より巧みな芸術家
Thomas Stearns Eliotに。





I.  Those who seek me diligently find me.


四月は、もっとも官能的な月だ。
若さを気負い誇る女たちは、我先にと
美しい手足を剥き出しにする。
春の日のまだ肌寒い時節に。
冬には、厚い外套に身を包み
時には、マフラーで首もとまで隠す。
こころの中にまで戒厳令を布いて。
バス・ターミナルに直結した地下鉄の駅で降りると
夏が水の入ったバケツをぶちまけた。
ぼくたちは、待合室で雨宿りしながら
自動販売機ヴエンデイング・マシーンで缶コーヒーを買って
一時間ほど話をした。
「わたくし、あなたが思っていらっしゃるような女じゃありませんのよ。
こんなこと、ほんとうに、はじめてですのよ。」
どことなく似ていらっしゃいますわ、お父さまに。
幼いころに亡くなったのですけれど、よく憶えておりますのよ。
いつ、書斎に入っても、いつ、お仕事の邪魔をしても
スミュルナ、スミュルナ、わたしの可愛い娘よ
と、おっしゃって、膝の上に抱いて、接吻してくださったわ。
聖書には、お詳しくて? 創世記・第十九章のお話は、ご存じかしら?
たいてい、いつも、夜遅くまで起きていて、手紙を書いたり、本を読んだりしています。

この立ちこめる霧は、何だ。
この視界をさえぎる濃い霧の中で、いったい、如何(いか)なる代物に出(で)交(くわ)すというのか。
人生の半ばを過ぎて、この暗い森の中に踏み迷い、
岩また岩のけんな山道を、あえぎにあえぎなが彷徨さまよい歩くおまえ。
いま、おまえは、凄まじい咽喉のどの渇きにさいなまれている。
だが、耳を澄ませば、聞こえるはずだ。
深い泉のさざめきが。
どんなに干からびた岩の下にも、水がある。
さあ、おまえの持つ杖で、その岩の端先(はなさき)を打つがよい。
(すると、その岩の裂け目から、泉が迸(ほとばし)り出る。)
これで、おまえの咽喉のどの渇きは癒され
顔の前の濃い霧も、ひと吹きで消え失せる。
もはや視界をさえぎるものは、何もない。
こんどは、その岩の割れ目に、杖を突き立ててみよ。
    かの輝けるゆたかなる宝、
    糸のごと、狭間はざまに筋(すじ)ひきて、
    ただくすしき知恵の魔杖にのみ、
    己が迷路を解きあかすなり。
『一年前、あなたの写真を、近くの古書店で、手に
入れました。写真の裏には、電話番号が書かれてあり
ぼくは、あなたに、何度も電話をかけました。』
――でも、それは、ずいぶんと昔のことなのですよ。
わたしが、自分の写真を、本のあいだに挾んでおいたのは。
いま、わたしが何歳であるか、それは申しませんが
あなたから、お電話をいただいたときには、もう
お誘いを受けられるような年齢(とし)ではなかったのです。
ことわりもせず、電話番号を変えて、ごめんなさいね――襟懐きんかい
    見出でし泉のくすしさよ。
この男も、詩人の端くれらしく
つまらぬことを気に病んで
眠れぬ一夜を過ごすことがある。
そんなときには、よく聖書占いをする。
右手に聖書を持って、左手でめくるのだ。
岩から出た蜜によって、あなたを飽(あ)かせるであろう。
(前にも一度、これを指さしたことがある。)
そういえば、ジイドの『地の糧』のなかに
「蜜房は岩の中にある。」という言葉があった。
アンフィダという場所から、そう遠くないところに
灰色と薔薇色の大きな岩があって、その岩の中に
蜜蜂の巣があり、夏になると、暑さのせいで
蜜房が破裂し、蜂蜜が岩にそって
流れ落ちる、というのだ。
動物の死骸や、樹幹の洞の中にも
蜜蜂は巣をつくることがある。
詩のモチーフを得るために、この詩人は
しばしば聖書占いと同じやり方で辞書を開く。
William Burke というのに出会ったのも、それで
詩人の William Blake と名前フアースト・ネームが同じ
この人物は、自分が殺した死体を売っていたという。

無防備都市ローマ、チツタ・アペルタ
夏の夕間暮れ、月の女神の手に、水は落ち
水はみな、手のひらに弾かれて、ほどけた真珠の玉さながら、飛び散らばる。
アルテミスの泉と名づけられた噴水のそばにある
細長いベンチの片端に腰かけながら
彼女は恋人を待っていた。
たいそう、映画の好きな恋人で
きょう、二人で観る約束をしていた映画も
彼のほうから、ぜひ、いっしょに観に行きたいと言い出したものであった。
彼女が坐っているベンチに
彼女と同じ年ごろのカップルが
腰を下ろして、いちゃつきはじめた。
男が一人、近寄ってくると、彼女の隣に腰かけてきて
「ミス・ドローテ」と、耳もとでささやいた。
『どうか、驚かないでください、といっても、無理かもしれませんね。
許してください。しかし、あなたのように、若くて美しい方なら
突然、このように、見知らぬ男から声をかけられることも
それほど、めずらしいことではないでしょう。
これまで、あなたほど、顔立ちの見事に整った、美しい女性には、お目にかかったことがありません。
ほんとうですよ。ところで、わたしがあなたに呼びかけた、ドローテという名前は
ある詩人の作品のなかに出てくる、見目もよく、気立てもやさしい、若い娘の名前なのです。
ですから、そのように、眉間に皺を寄せて、わたしを見つめないでください。
あなたの美を損ねてしまいます。
わたしが、あなたの聖(きよ)らかな泉を汚すことは、けっしてありません。』





II. You do not know what you are asking.


ゴールデン・ウィークを迎えるころになると
授業に出てくる学生の数が激減する。
半減期は一週間、といったところだろうか。
それでも、昔に比べれば、ずいぶんとましになったものだ。
この大きな階段教室に、学生が二人、といったこともあったのだ。
(そのうちの一人は、最初から最後まで、机の上につっぷして眠っていた。)
点が甘いということで、登録する学生の数が非常に多いのだが
出欠をまったく取らないので、出てくる学生の数が見る見る減っていくのである。
出欠を取れば、学生が出てくることはわかっているが、時間が惜しい。
授業内容さえ充実していれば、かならず出てくるはずだ、と
そう思って、授業にも、いろいろと工夫を凝らしてみるのだが
なかなか思いどおりには、いかないものである。
小説のなかに出てくる、ちょっとした小物や、ささいな出来事が
――その場面に、すばらしい表情を与えるものとして
あるいは、作品世界全体をまとめる象徴的なものとして機能することがある
ということは、前の授業で、電話を例に、説明しましたね。
今回は、ハンカチについて見ていくことにしましょう。
まず、電話のときと同様に、ハンカチという言葉の起源と、その用途について調べ
つぎに、いくつか、文学作品を採り上げて、そこで用いられている、さまざまな例を通して
いったい、どのような効果が得られているのか、考えていくことにしましょう。
ハンカチ、すなわち、ハンカチーフという語がはじめて文献に現われるのは
十六世紀、もう少し正確に言いますと、一五三〇年のことですが
じっさいには、それ以前にも用いられていたと思われます。
その原型となるものは、古代エジプトにも存在しておりましたし
ギリシア・ローマ時代にも、顔の汗をふいたりした、スダリウムと呼ばれる布切れや
食事のときに手をふいたりした、マッパと呼ばれる布切れがありました。
また、これらの布切れは、競技のスタートの合図に振られたり、賞賛の印として振られたり
教会で儀式が執り行われる際に、僧侶の手に持たれたりしました。
ハンカチが一般に普及したのは、もちろん
「ハンカチーフ」という語が文献に現われた十六世紀以降のことですが
それはまず、上流階級の間で、装飾品として手に持たれたことにはじまりました。
当時は、手袋や扇と同様に、服装の一部をなすアクセサリーとして重要なものでした。
なかには、宝石が縫いつけられたり、豪華な刺繍が施されたりしたものもありました。
十七世紀になりますと、一般の婦女子のあいだでも用いられるようになりました。
形見の品として譲り渡されたり、愛の印として贈られたりしました。
こういった例を、文学作品のなかから、いくつか採り上げていきましょう。
つぎの文章は、スタンダールの『カストロの尼』において、主人公が、自殺するまえに
手紙とハンカチを、自分の恋人に手渡してくれるように、ひとに頼むところです。

『どうして、あんなに字が汚いのかしら。
ひと文字、ひと文字、大きさもバラバラで、ほんっとに、ヘタクソな字!
それに、どうして、あんなに歩きまわって、黒板のあっちこっち、いろんなとこに書いてくのかしら。
ちゃんと、ノート、取れないじゃない。ったく、もう。あっ、あの字、あれ
  なんて書いてあんの? なんて書いて? なんて?
なんて書いてあんのか、ゼンゼンわかんない。
ちゃんと書いてよね。』

そのひとがふだん身につけていたものを形見にしたりすることは、ごく自然な感情によるものでしょう。
つぎに、愛の印に贈られたハンカチが、たいへん重要な小道具として出てくる作品を紹介しましょう。
『あの黒いものは、なんだろう。』
    キャンキャン吠えながら、尨犬(むくいぬ)が駆け降りてくる。
『だれが教室に入れたのですか? どうして、こんなところに連れてくるのですか?』
     だれも答えない、だれも。
                     『だれも
答えないのですか? だれか、一人くらいは、わたしにこたえられるはずでしょう?
それとも、犬が自分から勝手に入ってきたとでもいうのですか?
自分から勝手に?』

 とうとう、ペットまで、教室のなかに持ち込むようになってしまった。
いやはや、なんという連中だろう。あまりにも馬鹿らしくて、これ以上、叱る気にもなれない。
『おれが、あんなに大事に思って、おまえにやったハンカチを、おまえは、キャスオウにやった。』
                                         これは、あの
シェイクスピアの『オセロウ』にあるセリフですが、苺の刺繍が施された
このハンカチは、オセロウの母親遺した形見の品で、批評家のトマス・ライマーは
このハンカチ一枚に、みなが右往左往する、この作品を批判して、「ハンカチの笑劇」と呼びました。
『午後から、なにか、予定ある?』
『とりあえず、あたしは、髪を切ってもらいに
美容院に行くわ。それから、アルバイトに
行くかどうか、考えるわ。』

                           あと十分で、二講時目終了のチャイムが鳴る。
また、そこの先輩が、意地が悪いのよ。
若い客が、あたしとばかり、話したがるもんだから
嫉妬してんのよ。まわりに、だれもいなくなったりしたら
もう、たいへん。ほんっとに、ひどいのよ。
きのうなんて、のろいわね、とか、グズね、とか言って
あたしの顔を、にらみつけんのよ。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
入って、まだ二日目よ。
できるわけないじゃない。
することだって、いっぱいあんのに。
あーあ、もっとラクだと思ってたわ、マネキンの仕事って。
あっ、そうそう
それより、マルトの話、聞いた?
新しい恋人ができたの、って言ってたわ。
ねっ、きみも、詩が好きかい?
ぼくは、ボードレールや、ランボーの詩が好きなんだけど。
ですって。
いきなり隣の席にきて、その彼氏、そう言ったんですって。
マルトも、あのとおり、文学少女でしょう。
わたしも、ボードレールや、ヴェルレーヌが好きよ、って返事したらしいわ。
ジャックっていう、高時時代から付き合ってる、れっきとした恋人がいるっていうのにね。
彼って、体育会系でしょ。新しい彼氏は、ゼンゼン違うタイプなんですって。
背が高くて、やせてて、それに、顔が、とってもきれいなんですって。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
弟のラインハルトが、部屋のなかに閉じこもったまま、出てこないのよ。
お母さんの話だと、一日じゅう、ほとんど閉じこもりっきりで
食事もろくに摂ってないっていうのよ。
たしかに、見るたびに、やせてってるって感じだったわ。
お母さんたら、このままだと、拒食症で死んじゃうかもしれないわ、って言うのよ。
どうやら恋わずらいらしいんだけど
(ところで、一つ年下の弟は、ことし高校を出たばかりの青年だ。)
同い年の幼なじみの女子にふられたっていうのよ。
あたしと同じ、エリーザベトっていう名前の子なんだけど、たしかに、可愛らしい子だったわ。
まあ、あたしの知ってるのは、彼女が中学生ぐらいまでの
ことだけど。(近くに森があって、弟と彼女は、小学生のころ、よくいっしょに、苺狩りに出かけた。
湖水のほとりで、ハンカチを拡げ、そのうえに、採ってきた苺をならべて、二人で食べた。)
その彼女から、ある朝、弟に手紙がきたらしいんだけど
それからなんですって、弟が部屋のなかに閉じこもるようになったのは。
あたしたち、弟が高校に入るときに、こちらに越してきたでしょ。
それでも、弟は、月に一度か、二度くらい、そのこと逢ってたらしいのよ。
お母さんたら、なんでも見てきたことのようにしゃべるんだけど
これは、たしかに、ほんとうのことなんですって。
やっぱり、遠距離恋愛って、むずかしいのよね。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
えっ、なに? なに? あたってるの? さっきから?
あら、ほんとだわ、どうしましょう。
あなたも、聞いてなかったわよね。
まあ、どうしましょう――
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
どう思いますか? さあ、はやく立って、答えてください。
ねえ、アガート。ねえ、ジェラール。ねえ、ダルジェロ。
あなたたち、みんな、聞いてなかったの?
どう思いますか、ですって。
なにか言わなくちゃ。
えっ、あの黒板に書いてある言葉をつかって、なにか言いなさいよって?
イヤン、字が汚くて、ゼンゼン読めないわ。





III. You shall love your neighbor as yourself.


この地下鉄は南に行き、南の端の駅に着くと
北に転じて、ふたたび北の端の駅に戻る。
電車、痴漢を乗せて走る。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
見目美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
汝の胸の形、汝の腰の形、汝の尻の形は
その形を見る者の目を捉え
その香料の芳(かんば)しい香りを放つ汝の身体は
その匂いをかぐ者の鼻先を捉える。
感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
他人に気づかれないように、こっそりと
ひそかに、感覚器官が、感覚器官の対象に向かって働く。
愚かな女は騒がしい。
自分の唇を制する者には知恵がある……
見目(みめ)美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、尽きるまで。
見目(みめ)美(うるわ)しい乙女たちよ、その身をまかせよ。
わが息の霊の力、及ぶうち。
わたしの横に
駆け込み乗車してきたばかりの男が立っている。
噴き出た汗をハンカチでぬぐいながら、男は、すばやく社内を見渡した。
坐れないことがわかると、溜め息をついて
書類の入った袋を、鞄のなかにしまった。
それにしても、この男の表情は陰鬱である。
それは、この男が、これから先、自分がどこへ行き、どんな顔をして
どのように振る舞わなければならないかを知っているからだ。
男が、わたしの身体を透かして、通路の向こう側を見た。
わたしの姿は目に見えず、だれも、わたしを目で見ることはできない。
わたし自身が、ひとの目に触れることを望まないかぎりは。
男の視線の先に、空席を求めて隣の車両からやってきた、一人の妊婦の姿があった。
その表情は苦しげで、またその足取りも重く、なお一歩ごとに、その重みを増していったが
ときおり、他の乗客の背中に手をつきながら、しだいに、こちらに近づいてきた。
男が、ふたたびハンカチを取り出して、額や花の下の汗をぬぐった。
激痛が、彼女の両腕を扉付近の支柱にしがみつかせた。
わたしは首をまわして、わたしの息を車内全体に吹きかけた。
これで、だれ一人、女に自分の席を譲ることができなくなった。
突き出た腹を自ら抱え、女が、その場にしゃがみ込んだ。
わたしは、男の耳もとに、わたしの息を吹きかけた。
男の胸がはげしく波打ちはじめた。
男が足を踏み出した。
フウハ フウハ フウハ
ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン ドックン
おのれ自身が創り出した、淫らな映像に惹き寄せられて。

名画座で上映されていたのは
無防備都市(ローマ、チツタ・アペルタ)。
夏の夜、波の模様に敷き詰められた敷石(しきいし)のうえを
溜め息まじりに言葉を交わしながら、恋人たちが通り過ぎて行く。
広場に残っていたカップルたちも、夜が更け、噴水が止まると、ぽつぽつと帰りはじめた。
ひとの動く気配がしたので振り返ると、植え込みの楡の樹の後ろから、丸顔の女の子が顔を覗かせた。
あまりに若すぎると思ったが、そばにまでくると、それほどでもないことがわかった。
たどたどしいフランス語で、あなた、ガブリエル伯父さんでしょ、と訊ねられた。
あらかじめ電話で教えられていたとおりに、そうだよ、きみの伯父さんだよ、と答えると
彼女は微笑んで、地下鉄に乗るのね、と言い、ぼくの腕をとって歩き出した。

すみれ色の時刻。
友だちと大声でしゃべり合う学生たちや
口を開く元気もない、仕事帰りの男や女たちを乗せて
地下鉄は、ゴウゴウ、音を立てて走っている。
わたし、メフィストーフェレスは
馬の足を持ち、贋(にせ)の膨(ふく)ら脛(はぎ)をつけて歩く
つむじ曲がりの霊である。
このすみれ色の時刻。
ジムこと、ジェイムズ・ディリンガム・ヤングは、まだ
二十二歳の貧しい青年であったが、彼の住む安アパートの二階には
鏡のまえで美しい髪を梳きながら、新妻のデラが、彼の帰りを待ちわびていた。
彼の膝のうえには、宝石の縁飾りのある、べっ甲の櫛が入った小さな箱が置かれていた。
その高価なプレゼントを買うために、彼は、父親から譲り受けた
もとは祖父のものであった、上等の金時計を売らなければならなかった。
ミス・マーサ・ミーチャムは四十歳、通りの角で、小さなパン屋を営んでいる。
最近、彼女は、自分の店にくる客の一人に、思いを寄せている。
男は、いつも(新しいパンの半分の値段の)古パンを二個、買って行く。
こんど、彼のすきをみて、古パンのなかに、上等のバターをたっぷり入れてあげましょう。
彼女は、吊革につかまりながら、ジムのまえで、そんなことを考えていた。
馬の足を持つ、このねじくれた霊、メフィストーフェレスなる
わたしには、こうした事情が、すぐにわかるのだ。
二人の耳もとに、わたしは、いまこの電車に乗ってくる、一人の男を待っていたのだ。
あの背の高い、やせた白髪頭(しらがあたま)の
男が乗ってくるのだ。
プロテスタント系の私立大学に勤める、文学部の教授である。
創作科のクラスで、詩や小説の書き方を教えている。
三十代半ばで、はじめて女を知った、この男は
それからの数年間というものを
肉欲の赴くまま、享楽に耽(ふけ)っていたのだが
三十代の終わりに、妻となるべき女と出会って
それまでの淫蕩な生活に、突然、終止符を打ったのである。
彼は、妻のことをいちずに愛し、妻もまた、彼のことをいちずに愛した。
ともに暮らした十年のあいだ、子宝には恵まれず、あえて養子を取ることもしなかったので
彼らの家のなかに、子どもの声が響くことなどはなかったが、それで、さびしくなるということもなかった。
むしろ、二人きりでいることが、相手に対する愛情を、より深いものにしていった。
それゆえ、五年まえに、まだやっと三十を越えたばかりの妻を、交通事故で失くしてからというもの
彼は、妻を慕う気持ちのあまり、あらゆる女性を避ける避けるようになってしまったのである。
通いの家政婦のほかには、彼の家に訪れる女性は、一人もいなかった。
(わたし、メフィストーフェレスが、人間の耳もとに息を吹きかけると
たとえ、どれほど萎えしぼんだ魂の持主でも、情欲の
俘虜(とりこ)となって、生きのいい魂を取り戻すことができるのである。
かつて、あのファウストでさえ誘惑し、その胸のなかに
情欲の泉を迸(ほとばし)らせた、このわたしである。)
背中を押されて入ってきたセヴリヌ・セリジは、通路の真ん中で足を止め、目を凝らして見た。
このがっちりとした体格、この着くずれした背広、それに、この品のない首つきは……
彼女の斜めまえに立っている男に、その男の後ろ姿に見覚えがあったのである。
男が何気なく振り向いた拍子に、自分の知り合いではなかったことがわかって、彼女は、ほっとした。
ふと、彼女は、きょう、マダム・アナイスの家で自分を抱いた中年の男の言葉を思い出した――
『恥ずかしいんだね、ええ、恥ずかしいんだね。でも、いまに嬉しがらせてやるからな。』
美しい女が馬鹿な真似をすると、たちまち破滅する。
それが、夫のある身なら、なおさらである。
わざわざ、彼女の耳もとに、わたしが息を吹きかけてやることもない。
ただ、この体格のいい男の耳もとに、ひと吹きするだけでよい。

『あなたの泉に祝福を。』
電車が停まり、その扉が開くたびに
ひとびとが乗り込み、人々が降りて行く。
すべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。
男と女の出会いにも、時がある。
生涯において、ただ一度、同じ電車のなかに乗り合わせる、ということもある。
どの女も似通ってはいるが、同じと言えるところは、一つもない。
その胸の形、その腰の形、その尻の形のことごとく
その形それぞれに、男の目は捉われる。
さあ、いままた、扉が開いて、女たちが乗り込んできた。

よくよく、おまえに言っておく。
この電車が、つぎの駅に着くまえに
おまえは、三度、痴漢の手をはらいのけるだろう。
だが、恐れるな。この者は、よい痴漢である。
それにしても、この胸は、痴漢の愛する胸、痴漢のこころにかなう胸である。
痴漢がおまえの胸にさわるとき
おまえは、痴漢がすることを、他人に知らせるな。
それは、その行為が隠れてなされるためである。
そうすれば、おまえの胸に触れた手は
さらなる悦びを、おまえにもたらせてくれるであろう。
アハァ アハァ
アハァ アハァ
手はすでに、おまえの胸のうえに置かれている。
もしも、おまえの胸にさわる手が
おまえの胸のボタンをはずそうとするなら
おまえは、おまえのその胸の下着の留め金をはずせ。
そうだ、まことに、おまえの情欲は見上げたものである。
まことに、おまえは情欲の俘虜(とりこ)である。
もしも、痴漢が、おまえの乳房を引っ張って、おまえを
車両の端から端まで引き摺って行こうとするなら
その痴漢の手に、二車両は引き摺られて行け。
さあ、この生き生きとした悦楽にひたれ。
この悦楽の泉にひたれ。
 アハァ アハァ
 アハァ アハァ

「あたし、見てたわよ。
あの痴漢ったら、向こうの端から、こっちに向かって
一人、二人、三人って、つぎつぎに手を出していたでしょ。
あたしで、ちょうど、十人目になるわね。
でも、わたしには近づかないでよ。
ちょっとでも、さわったりしたら、警察に突き出してやるから。」
これまで、あなたのまえに、恋人が現われなかったのは
ただ、あなたの美に、だれも気がつくことができなかったからである。
事実、あなたは、もっとも美しい猿よりも美しい。
諺に、『老女は地獄で猿を引く。』というのがあるのを知っているか。
猿は、だれをも愛さず、だれにも愛されなかった女の、唯一、あの世での連れ合いなのだ。
人間には人間がふさわしく、猿には猿がふさわしいと思わないか。」
「愛を意味するギリシア語のエロースが
ローマに入ると、欲望という意味の言葉、キューピッドとなった。
不死なる神々のなかでも、ならぶ者のない、美しいエロース。
この神は、あらゆる人間の胸のうちの思慮と考え深いこころを打ち砕く。」
 ララ
ここがロドスだ、跳んでみよ。

さわる、さわる、さわる、さわっている。
おお、女よ、たとえ、おまえが、一日に千回、手をはらいのけても
おお、女よ、きっと、おまえは、一日に千五百回、手を出されるだろう。

さわってる。





IV. It was I who knew you in the wilderness.


男に出会ったのは、きのう
地下鉄の駅から出て、大学の構内に入って行くところだった。
男は研究室に立ち寄ると、すぐに教室に向かった。
                                  尨犬(むくいぬ)の姿となって
階段教室の前にいると
遅れてやってきた女子学生が、わたしを拾い上げた。
授業をしながらでも、始終、男は死んだ妻のことを思い出していた。
そのあと、一日じゅう、男のあとをつけまわしてみたが
男は、片時も、妻のことを忘れることがなかった。
何を見ても、何をしても、男は、すべてのことを、死んだ妻とのことに結びつけて考えた。
かつて、わたしが魂を奪い損ねた男と同じ名前を持つ男、あの男こそ
新たなる、神の僕(しもべ)、新たなる、わが獲物!





V. Behold the man!


ひと渉(わた)り、さっと車内に目を走らせると
そのあとは、ひとには目もくれない。
ただ、目をやるものといえば
言葉、言葉、言葉、
広告の。
彼の表情は硬かった。
亡くなった妻のことを思い出すとき以外に
その顔に笑みが浮かぶことなど、まったくなかった。
ここ、何年物あいだ、この詩人の魂に映るものといえば、岩の山、岩の谷、岩と岩ばかりの風景だった。
しかし、どんなにかわいた岩の下にも、水がある。
どれほどかわいた岩地でも、その下には、かならず水が流れているのだ。
もとをたどれば、詩人という言葉は
小石のうえを流れる水の音を表わすアラム語に行きつく。
こころの奥底に、流れる水がなければ、詩など書けるはずもない。
ひとを愛し、人生を愛してこそ、詩人であるのだから。
いまひとたび、そのかわいた岩々の裂け目から水を噴き出させ
その胸のなかに、情欲の泉を溢れ出させてやろう。
悪戯(いたずら)好きのわたしが、ほんとうに好きなのは
神の目に正しい道を歩まんとする者を
その道から踏みはずさせ、わたしの道を歩ませること
その彼の魂を、命の本減から引き離し、わたしのものとすること
その彼を、あの世における、わたしの奴隷、私の僕(しもべ)とすることなのだ
たしかに、かつて、わたしは、あのファウストの魂を奪い取ることができなかった。
それは、わたしが、背中に甲羅を生やした悪魔にしては、あまりにも初心(うぶ)だったからである。
しかし、もう、二度とふたたび、神には騙(だま)されない。けっして、騙(だま)されることはない。
わたしの新しい獲物、このファウストの魂は、わたしのものとなる。
足もとに目を落とし
耳を澄ましてみよ。
聞こえてこないか。
泉の湧く音が。
流れのもとの
深い水のとどろきが。
そら、そこの
その岩の古い肋骨(あばらぼね)を
おまえの持つその杖で打ってみよ。
シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ、シュバッ
と岩の割れ目から湧き水が迸(ほとばし)り
たちまち、かわいた岩地が
泉となる。

何者だ、この異形のものは。いま、耳もとでささやいていたのは、こいつなのか。
人間とは思えぬ、その姿。まるで絵に描かれた悪魔のようだ。だが、窓ガラスに、こいつの姿はない。
おかしなことだが、なんだか、自分の顔つきまで、自分のものではないような気がしてきた。
かなり疲れが溜まっているようだ。マルガレーテが生きていたころには、こんなことはなかった。
ああ、グレートヘン。ぼくの可愛いひと。あの唇の赤さ、あの保保の輝きよ。
きみといた十年のあいだ、たしかに、ぼくは、もっとも浄(きよ)らかな幸福を味わうことができた。
ときおり拗ねて、ツンとすまして見せたけれど、それが、またさらに、きみのことを愛しく思わせた。
きみの無邪気な、そんな仕草に、ぼくは、どんなに、こころ惹かれたことか――
きみは、ちっとも知らなかっただろう?

電車が停まって、ファウストのそばの座席が二人ぶん空くと
乗り込んできたばかりのデイヴィッドとキャスリンが、その空いたところに、すかさず腰を下ろした。
褐色に日焼けした二人は、真珠をつないだ短めのネックレスを首に嵌め、レモンイエローの
サマーセーターに、白のジーンズという揃いの出で立ちで、髪をスカンジナヴィア人なみの白っぽい
ブロンドに染め、全体を短く刈り込んで、見かけを、そっくり同じにしていた。
もともと、兄妹のように、よく似た二人であったが、このように
同じ身なりと同じ短い髪型でいると、ひとの目には、まるで双生児(ふたご)の男兄弟のように映った。
ねっ、キスして。女が男の目を見つめながら、そう言うと、男が女の肩に腕をまわして、抱き寄せた。
唇が離れると、女が、男の耳もとで、ねっ、あたしにもキスさせて、と、ささやいた。
すると、男が、わざと驚いたふりをして、ひとが見てるぜ、と言って微笑んだ。
さすがに、ファウストも、このとびきり派手な二人の振る舞いには、目をやらざるを得なかった。
ひとに見られてるの、嫌? 女が坐り直し、男の腰にまわした腕を背中の方に動かした。
いいとも、悪魔め。おれが嫌なわけないだろ? いかにもうれしそうに、男が、そう答えると
メフィストーフェレスが、口の端をゆがめて、ニヤリと笑った。

何を人間が渇望しているのか、それを一番よく知っているのは、悪魔であるこのわたしだ。
この世界の小さな神さまの魂は、わたしのものである。
わたしに不可能なことがあるだろうか。
この脚の長いキリギリスの魂は、かならず、わたしが手に入れてみせる。
さあ、ファウスト先生よ、わたしの言葉をお聞きなさいよ。
そういつまでも、文献ばかりにしがみついていないで、現実をしっかりごらんなさいな。
最近の先生の作品は、生気がなくて、ちっとも、よくありませんよ。
ほんとうの詩なんてものは、先生ご自身の胸のなかから湧き出てこなければ、得られないものでしょう?
ところで、先生、ごらんのこの二人のうち、女の方の名前を、あなたにお教えしましょうか?
それは、先生が、もっとも愛しておられた女性と同じ名前の、グレートヘン、すなわち、マルガレーテ。

なに? グレートヘン? マルガレーテだって? それがこの娘の名前なのか?
そう言われてみれば、ぼくの愛しい妻、マルガレーテに似ているような気がしてきた。
この胸の奥深くに仕舞い込まれた、ぼくの花、ぼくの愛しいマルガレーテの面影に。
色褪せることのない、その面影。すべての花のなかで、もっとも清純で、可愛らしい花よ。
おいおい、悪魔め、その臭い息を、ぼくの耳もとに吹きかけるな。
マルガレーテがいなくなってからというもの、ずっと、ぼくのこころは、枯れた泉のようだった。
ただ、マルガレーテと過ごした日々が、そのすばらしい思い出だけが、ぼくを生かしてきた。
たとえ、どれほど美しい女性を見かけても、こころ惹かれることなどなかった。けっして、なかった。
つねに、ぼくの愛しい妻、マルガレーテの面影が、ぼくのこころを捉えて離さなかったのだから。
しかし、いま、ぼくの目のまえにいる、妻に似た、この娘の、なんと魅力的なことだろう。
よもや、女性というものに、これほど激しく胸が揺さぶられることなど
二度とはあるまい、と思っていたのに。

それにしても、この胸の昂(たかぶ)りは、いったい、どこからやってきたのだろう。
いやいや、どこからでもない。もとより、この胸の昂(たかぶ)りは、ぼく自身のなかにあったものだ。
ぼく自身の胸のなかに、この胸のなかに、もう一つ別の魂が、邪(よこしま)な魂が潜んでいたのだ。
いま、ぼくの傍らにいる、この悪魔の姿も、溢れ出る愛欲にまみれ
からみつく官能をもって現世に執着する、その邪(よこしま)な魂が、ぼくの目に見せた幻に違いない。
ダ!
ジー・ダ! そら、見るがいい。
ねっ、あたしの女になって。うわずった声で、女が男にささやいた。
キャスリンは、おまえだ。そう言い返す男の口もとを、女の手のひらがふさいだ。
いいえ、あたしがデイヴィッドで、あなたが、あたしのすてきなキャスリンよ。
激しく抱擁し合う二人の姿が、その二人の首もとで輝く真珠の光が、ファウストの目を捉えた。
情欲の泉が、ファウストの胸のなかから、その胸のもっとも深いところから湧き上がってきた。
すると、ここぞとばかりに、ひと吹き。メフィストーフェレスが、ファウストの耳もとに息を吹きかけた。
ファウスト先生よ、いま、これより、わたしが、あなたの僕(しもべ)となって、あなたに仕え
これまで、あなたが味わったことのない最高の瞬間を、あなたに味わわせてあげましょう。
ただし、その瞬間を味わった暁(あかつき)には、以後、あなたが、わたしの僕(しもべ)になるという条件と引き換えに。
さあ、ここに神があります。血をひと垂(た)らしつけて、署名していただきましょう。
ダ!
ウンター・ホイチゲム・ダートゥム・! さあ、きょうの日付で。
ああ、この紙も、このペンも、そして、この悪魔の姿も、声も、みな幻なのだろう。
いま、ぼくの目のまえにいる、この二人のやりとりも、また、一つの芝居、一つの幻に違いない。
ならば、なぜ、なにゆえ、この胸の奥深く、情欲の湧き水が、岩の狭間(はざま)に噴き上がるのか。
まことに、愛着(あいぢやく)の道は、その根の深きもの。これを求むること、やむ時なし。
まるで、岩から岩へと激する滝が、欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。
親指を噛んで、そら、悪魔よ、このひと垂(た)らしの血でいいのか。
グレートヘンが、いや、あの娘が、ハンカチを落とした。
おお、悪魔よ。あのハンカチを、取ってきておくれ。
ダ!
ダ・ニムス! ほら受け取るがいい。
おお、この芳(かぐわ)しい香りよ。
なんたる歓びの戦慄(おのの)きが、ぼくを襲うことだろう。
この胸も張り裂けてしまいそう。
ああ、苦しい、苦しい。心臓が掻きむしられるようだ。
だが、これが、最高の瞬間だ!

                                ファウストの身体が後ろに倒れた。
針が落ちた。事が終わった。
乗客たちの姿が光に包まれ、その光が天使の群れとなって、聖なる歌を唱いはじめた。
おお、なんと胸くその悪い響きだ、この調子はずれの音は。
おや、ファウストの身体が宙に浮くぞ。
だんだん上がっていく。
また、横取りするつもりなのか。
――この死体は、わたしのものだ。
ここに、こいつが自分の血で署名した書付(かきつけ)があるのだ。
おお、天井にぶつかって、ファウストの死体が床のうえに落ちたぞ。
あはははは、そうだ、ここは地下鉄だ。地下鉄の電車のなかだぞ、天使どもめ。
だが、これほどたやすく手に入る魂に、値打ちなどちっともない。おまえたちにくれてやる。
ジー・ダ。ウンター・ホイチゲム・ダートゥム。ダ・ニムス。見るがいい。きょうの日付でくれてやる。
ディー・クライネン、ディー・クライネン。ちび、ちび。










自由詩 The Wasteless Land. Copyright 田中宏輔2 2025-12-11 07:56:04
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