ふたりで暮らすはずだった部屋は、
最初から何かを待っているように静かだった。
地下鉄の線路が近く、
夜になると鉄の響きは、くぐもって届いた。
その音が窓を震わせるたびに、
あなたが「便利だよ」と笑った横顔が、
薄い光の膜のように、部屋の空間に残っていった。
家賃は三万。台所と風呂があれば十分。
そうふたりで話し合っていた。
その「ふたり」という単位は、まだ未来を照らす灯りのように
重たく、温かかった頃。
家具売り場では、
わたしの歩く速さにあなたが自然と合わせた。
新品のソファに腰を下ろしたとき、
並んだ膝が触れたあの一瞬を、
今も部屋のどこかが覚えている気がする。
待ち合わせにあなたが来なくて、
どんなふうに怒ったら驚くだろうと、
密かに台詞を考えていた。
あれが、わたしがあなたに向けた
最後の「意地悪」になった。
信号無視のトラック。
あなたの不在は、あまりにも無愛想すぎる言葉で、
世界の方から告げてきた。
電話口の向こうで誰かが言いよどみ、呼吸だけが揺れた。
その沈黙――
あなたがもう来ないことの証だった。
アパートには、
使われなかった二人分の生活だけが残った。
同じ柄の歯ブラシ。
揃いのコップ。
家具売り場で触れたラグの手触りだけが、
床の上でひそやかに冷えていた。
思い出と呼べるほどの、時間は短いのに、
思い出になりそこねた物ばかりが、積み重なっていく。
その積み重なり増えたぶん、代わりにあなたの時を刻んだ。
ある日、荷物が届いた。
送り状の筆跡にあなたの名前があった。
段ボールを開けると、
家具売り場でわたしが指先でなぞった食器棚が、
深い眠りから醒めるように姿を現した。
わたしが
「これも、欲しいね」と言ったとき、
あなたは
「ぼくらには、まだ贅沢だよ」と笑った。
あれが本心ではなかったと、その時ようやく知った。
あなたは、未来を諦めていた訳じゃなかったんだ。
未来を整えていたのは、あなたのほうだった。
床に膝をつくと、木目が涙でにじんだ。
わたしは、あなたの優しさの終わり方を知らなかった。
洗面所には、脱ぎ捨てられた片方の靴下が置かれたままだった。
洗えばいいのに、洗えなかった。
繊維に宿ったあなたの匂いが、
水に溶けて消えてしまうのが怖かった。
けれど――
その匂いだけを抱きしめて生きることは、
あなたが望んだ未来ではないと、
ゆっくり思えるようになった。
あなたが最後にわたしに贈ってくれた「未来への準備」。
わたしは、生きることで完成させなければならない。
震える手で靴下を手に取った。
掌の中で布地は驚くほど軽かった。
水を張った洗面器に沈めると、布はふわりと広がり、
あなたの匂いが静かに解き放たれていった。
その瞬間、
胸の奥の長い冬に、やっと雪解けが迎えられたように
水面の揺れとともに、 あなたの気配は、薄れ、消えていった。
けれど不思議だった。
遠ざかるのではなく、あなたが
わたしの心の内の最も深い所に
そっと
腰を下ろしたように感じた。
洗った靴下を両手で絞ると
透明な水が、しずくとなって落ちていった。
それは悲しみと一緒に、
わたしが抱えていたあなたの面影を
世界へ返す儀式のようでもあった。
冷たくなった靴下を広げたとき――
胸の奥で、静かにひとつの灯りがともった。
あなたが居ないから、この部屋が寂しくなったのではない。
あなたの優しさに背を押されて、
わたしがこれからこの部屋を満たしていくのだと、
はっきりわかった。
そして――
その想いだけで、もう一人ではなかった。
※原作の歌詞「アパート」を短編小説に修正しました
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