夕陽は、すっかり沈んでしまっていました。
野原の色は、夜の灰色にゆっくりと溶けていきます。
男は徳利を傾け、ふらふらと細い道を歩いていました。
酒に酔い、肴を楽しむつもりも忘れ、ただ夜の草の匂いを胸に吸い込みます。
ふと顔を上げると、すすきの茂みに一つの影が揺れていました。
頭に小さな木の葉を乗せ、前転、後転を繰り返す狐。
耳や尻尾はまだ隠れず、人の姿になろうとしては、すぐに元の獣の姿に戻ります。
その舞いは、誰からも見られてはならない、知られてはいけない、
狐の心に秘められた、真剣な姿でした。
狐は少し前、村祭りの後の神社の社の地面に落ちていた、
紅色の漆塗りの簪をそっと胸の奥にしまっていました。
そのつややかな光と精緻な細工が、狐の心に一つの願いを呼び覚まします。
――この簪に似合う姿になれたなら、私も美しくなれるだろうか。
男は影のようにしゃがみ込み、息を殺して見守ります。
最初は狐をただの酒の肴として眺めるつもりでした。
しかし、汗で毛を湿らせ、孤独に努力を続ける狐の姿は、
男の胸の奥を静かに熱くさせるのでした。
木の葉一枚、宙返りの角度、月の光のかすかな加減…
その一つ一つが、命をかけた真剣勝負のように見え、
男の心には言葉にならぬ尊敬の念が深く刺さります。
夜が深まり、空に星がこぼれ落ちる頃、
狐はとうとう化けることに成功しました。
その姿は、
月の光に透ける肌を持つ、たおやかな村の娘でした。
肩がそっと揺れ、伏せられた瞳、衣擦れの微かな音。
そして、胸元には、さりげなく紅色の簪が挿されていました。
狐が抱いた夢の証のように、清らかに光ります。
美しさと、すぐに消えてしまいそうな儚さが同時に息づくその姿。
男は立ち上がり、夜の静けさを破る一歩を我慢できずに踏み出したのです。
「…………。」
喉の奥から絞り出された小さな声。
化けられた歓びと消えないで欲しいという願いをまとい、
娘の姿をした狐の瞳に届きました。
狐はゆっくりと顔を上げました。
男に狐の秘密の化ける姿を見られてしまったことに動揺し、
娘のままでいる時間も分からないという、わずかな焦りも映っていました。
その瞬間、すぐに娘の姿から、元の狐の姿へと身を縮め、
音もなく月の光の隙間に消えました。
月明かりに残っていたのは、わずかに揺れるすすきの穂だけでした。
男は我に返り、慌てて狐の消えた所へ駆け寄りましたが、
夜露に濡れた土の上、そこには
光を反射して輝く、紅色の漆塗りの簪がひとつ。
男はそっと拾い上げました。
手に残る冷たさは、狐がそこにいた証。
そして、重さと光沢は
狐の努力と夢が残っていたことを伝えています。
月の光だけが、野原にあるすべてを照らしていました。
風は静かにすすきを揺らし、
夜の余韻は遠い山々まで響きます。
男の胸には、狐が化けた儚い娘の姿と、
紅色の簪が、深く深く刻まれているのでした。
すすき野原で見た狐。たれぞ、その所在を存ぜぬか。
すすき野原で見た狐。たれぞ、その所在を存ぜぬか。
※原作の歌詞「すすき野原で見た狐」を創作童話に修正しました
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