朝顔が知らないうちに、ひそやかに蔓をのばしていたので、
庭の人は一本の竹をそっと添え木にたててやりました。
その晩のことです。
夜は早くからしんとして、星はどれも遠くで息をひそめ、
虫の声だけが、細い銀の糸のようにあたりにひらひらしていました。
朝顔は生まれつきのはにかみ屋でした。
風がそっと触れても、葉をすぐに丸めてしまうくらいの、
とてもおとなしい花なのです。
けれども添え木に立てられた竹は、
どこか南の山風の名残を思わせるような、明るく朗らかな声で話しはじめました。
「ねぇ、朝顔さん。
僕は今でこそ、こんなふうに黄色くなり、
節もすっかり歳をとってしまっていますけれど、
むかしはそれはそれは、みずみずしい青竹だったんですよ。
生まれたところはね、ここよりずっと南の、
陽ざしが踊るような、とても素敵な山なんです。
あぁ……みんな、どうしているでしょう。
一度でいいから帰りたいなぁ。」
朝顔は、葉の影からそっと顔を出して、
竹の声を静かに聞きはじめました。
竹は、おじいさんやおばあさんから聞いた昔ばなしを、とくとくと語りました。
「おばあちゃんの生まれるもっと前のことにはね、
月のお姫さまが光る節から生まれたんですって。
信じられませんよねぇ。
それに、おじいちゃんがまだ子どもだったころには、
竹の切りくずが風に舞って、
村じゅうの枯れ木に花を咲かせたことがあるんですよ。
それはそれは大騒ぎだったそうです。」
竹は、青かったころのこと、
雨にうたれ、風に吹かれ、いくつもの山を越えてここまで来た旅のことなどを、
たのしそうに、時には寂しそうに話しつづけました。
朝顔は、そのひとつひとつに耳をすまし、
ときどき小さく揺れては、ひっそりとうなずくのでした。
夜が少し深まり、
風の音もいよいよかすかになったころ、
竹はふと思い出したように、ひそっと言いました。
「朝顔さんは……いつ咲くのですか?」
その声は、相手の心の中に無遠慮に踏みこまぬよう、
節の奥で息をととのえてから出したような、
ほんとうに控えめな囁きでした。
朝顔は、もう胸がいっぱいのようでした。
ほんのりと頬を染めた色が葉の影にもひろがり、
かすかに震える声で答えました。
「……今朝、陽が昇るころに……。」
それは夜露がひとつ落ちるほどの、小さな小さな声でした。
「ほう。」
竹は、ちょっぴり偉そうに言いましたが、
その裏には、どこか嬉しさが隠しきれませんでした。
それからは、また静かな時が流れました。
竹は、気まずくなると
「コホン……。」
と小さく咳ばらいをしました。
星たちは、その様子を、
まるでふたりを応援するように
ちらりと微笑みながら見つめていました。
夜風は少し悪戯っぽく、朝顔の葉をそっと揺らし、
カサカサと、ふたりの間に秘密めいた音を残して通りすぎてゆきました。
朝顔は胸の奥で、自分の世界が小さく変わったのを感じていました。
竹の声も、南の山の話も、
なんだか花びらの下にそっと灯る明かりのように、
ずっと心に残ってしまったのです。
そして、うつむいたまま、ずっと顔を赤くしていました。
やがて、東の空がうっすら白みはじめました。
――夜が明けました。
お日さまは、まるで朝顔を励ますように
あたたかい光をそっと庭に降らせました。
見ると、
そこには、
紫色に咲くはずだった朝顔が、
――ちょっと恥ずかしげにうつむいて、
小さな、薄桃色の花をぽっと咲かせていたのです。
その色は、
竹が語った南の空の朝焼けのようにも、
朝顔の胸の奥で灯った小さな想いの色のようにも、
どこかほんのりと、優しく揺れていました。
※原作「竹と朝顔」を修正しました
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=364548