レモンになってゆく
百(ももと読みます)

 すこしずつ、ぼくもレモンになってゆく。米津玄師は気持ちの面でのぼくの親戚だ。気持ちの落ちつきは得難いものだ。

 ラジオをお聴きすることでも、繋がりの輪に意識を留めておくことができる。ひとりぼっちって幻想だ。

 肌のうえや大腸のなか、またはトキソプラズマもそう。たくさんのぼくみたいなものがわわわっていって、どこのどこかのこころの場所で勝手にくるしいようって咽び泣く憐れさが、いま、すこし遠い。



 11月16日に「全てのひとは倖せになるべきだ」という随筆を書いて、そこに登場する友人が、きみは病気ぢゃない、弱いだけだって、はっきりといってくれて、びっくりするほどメメが醒めつつある。

 気やすめの言葉って、おやさしいだけ。毒きのこみたいな言葉は行間を読む技術を身につけることで、大変なためになるのだって気づいた。

 お眠りする居心地で日中も穏やかに過ごすこと。おどけてもふざけることはできない強さ、ぼくにある。そして、どうやらぼくは芸人で。このことは随分と以前から、その友人がぼくの懸命さについて、そうあらわすのだよ。



 わらえるくらいの明日にかける橋のようだよ。あぶない綱渡りみたいな人生は、もうやめさ。

 意識して生きられるわけもない。正気であれど、あやまち起こす。常に狂っているようなひとは閉鎖病棟でもみつからなかった。

 みえないことをみようとすること、そのため、学び必要です。お世話になったおやのこと、諦めないのも大切です。

 哀しい多々あり、戸籍上の名の変更を精神的な理由により許可されたこと。分籍届を提出し、いまのぼくの本籍は山口県の湯田温泉にあること。

 ぼくの最愛の友人が、この街の市役所さんまで連れていってくれたときのこと。いいひとたちに囲まれて、お仕事のためのテスト期間にはいっていること。

 レモンをぱりって割るように酸っぱいねっていって、甘くない気持ちで乾杯したい。最も大切なものは友情だ。ぼくはきみたちの倖せを切に祈る。


散文(批評随筆小説等) レモンになってゆく Copyright 百(ももと読みます) 2025-11-24 10:00:02
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