毎日、浜辺に少年が座るようになったのは、いつの頃からだったのでしょう。
秋の空はどこまでも澄み、風はもう冬の気配をまとっていました。
ただ、寄せては返す波だけが、ほんのすこしあたたかく聞こえていました。
少年は海を見つめ、胸の奥で小さな祈りをくり返しました。
――あの娘が、どうか幸せでありますように。
その幸せが、そっと僕の幸せにも重なりますように。
祈りは静かな重みを帯び、海の底へ沈んでゆきました。
そこで暮らす、あぶくの妖精は、その光にふれたとたん、胸の奥がふるえました。
ただひとつ、この願いを叶えてあげたい――。
禁を破ると知りながら、妖精は虹のかけらを手にとりました。
小さな虹色の玉に祈りを包み、自らの自由と記憶を失うと知りつつ、
そっと少年の足もとへ置きました。
少年はその玉を胸に抱き、想い続けた少女へと願いを託しました。
その日を境に、少年の姿も、妖精の姿も、浜辺から消えました。
季節がひとつ過ぎたころ、罰を受けた妖精は記憶を奪われ、
冷たい風の町の片すみに、人間の娘として静かに生まれおちていました。
娘の暮らしは、町でいちばん貧しいところにありました。
自分がなぜ涙によく気づくのか、なぜ誰かの影によりそいたくなるのか、
それを問う記憶はありませんでしたが、
胸の奥のかすかな温かさだけが、消えずに灯り続けていました。
娘は、誰かの落とした希望を拾うように、静かに日々を過ごしました。
凍える手を隠して隣人を助け、自分の食事を削って病人に施し、
報われることのない献身を、ただひとりで抱えながら。
それが彼女に与えられた、美しくも哀しい務めでした。
ある日、小さな包みが娘のもとに届きました。
開くと、そこには見覚えのあるはずのない虹のシャボン玉がありました。
月日に磨かれ、それは清らかな真珠の指輪となっていました。
白い光が、娘の指の上でそっと揺れました。
それはかつて、ひとりの少年が捧げた、ただひとつの愛のかたち。
そして、妖精だった娘自身が、忘れたまま抱きしめることになった、
静かな報いの証でもありました。
指輪の光の奥で、娘は胸の底に沈んでいた名もない痛みに触れました。
消えた記憶が、その縁だけをかすかに震わせました。
――ようやく出会ったのに、もう触れられない。
その寂しさだけが、そっと娘の手を包んでいました。
海から届いた祈りは、時を越え、一つの指輪となって彼女の手に帰りながら、
それでも行きつく先を持たぬまま、静かに胸の奥へとしずんでゆきました。
指輪の白いひかりだけが、
失われたものの影を、やさしく照らしていました。
※原作「虹のかけら(あぶくの妖精の話)」を修正しました
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