健全という幻想と病いとしての夢物語
百(ももと読みます)

 ぼくは今日、致命的なあやまちに気づいたのです。

 命がどこにあるのかわからないときに誰かについて考えることの険しさからの言い逃れ、そのために精神的な偏りへの主張が必要なのではないのかと。

 生まれもった性質ならば、負であることを隠さねば、生きることの荒波を超えてゆけないのは明白です。

 自傷に自称を重ねるように敢えて名のつく病いごとを普遍と置き換えるのならば、こころの病いは無に変換するべきです。

 生きづらさの証明は生きていることそのものですから、ぼくは多くのあやまちを言葉に乗せた罪として、病気を社会へと返還させるためにもしっかりと働かねばなりません。

 事業所でのお仕事をまるで炎上させるかのように、いまの気づきを糧にして伸ばしてゆく生命力をむねに宿し、健全という幻想と病いとしての夢物語をともに覚ましてゆく作業。



 力量不足で申し訳ございません。いまは病気という名の忍びとなって、作業所での労働を準備している段階です。

 日の光りの刈りいれの度に、ぼくもお家に帰ってはお米を焚いて生きるのです。労働から生まれた歓びをいっぱい食べて生きるのです。

 楽な作業にこころとしての全財産をつぎこんでまで生まれるものに意義はないのです。

 ぼくには負債があるために歯を軋ませてもいまを打開してゆく以外なく、芥のように命を燃やし、日曜日は教会へゆき、こころを洗って、奇麗な手でおにぎりを握るようなこと、数年かけてもする必要があります。

 実家を飛びだし、アパートメントを契約できたことをはじまりとして誰も責められるわけもない。ぼくは多くのあやまちをおかしました。怠惰という大罪です。

 就労までの道のりのなかで昂るものを覚えなければなりません。資本主義の底辺で体たらくを装って、いいわけするのは懲り懲りです。

 ぼくにもできるというわけを教えてくれる社会としての資本主義。



 甘い土壌に生まれたものです。甘い気持ちで生きてゆくこと、そればかりを続けては、いつか、ぼくの身体はチョコレートみたいに溶けてしまうことでしょう。

 跡形もなくとはゆきません。それも誰かの働きで、なす術もない自身のなきがらまで粗末にするようではなりません。

 人生初の荒波なんて、サーフィンするほど楽しいものではないのです。それゆえに、ひとの波をかきわけて、夜になるまで働いて、お家でほうっと過ごすのです。

 ぼくも価値のある人間です。倖せになっていいのだと、本日、ようやく理解した次第です。


散文(批評随筆小説等) 健全という幻想と病いとしての夢物語 Copyright 百(ももと読みます) 2025-11-15 20:00:02
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