鯖詰缶太郎さんの詩を読む
おまる

休憩と宿泊の間には今日も火球がふっている/鯖詰缶太郎
https://www.breview.org/keijiban/?id=15700

サバカンさんの詩的言語を、真正面から批評として料理するのは
むずかしい。鯖缶なのに。「鯖缶なのに」という言い方はちょっと
変だろうか。鯖缶を使ってうまく料理するのも、そこそこむずかしい。
サバカンパスタにもジンクスは存在するわけで。
しかしなんという特異な享楽さであろうか。この詩の内部には、
常に視点がうつろう。くるくると回転し、一点に留まらない精神が、
ここにある。

>「渋谷は
>火球がふっているから行きたくありません。」

この書き出しにドキっとする。思わず「たしかに」と一人ごちる。
ひと昔前、たまに渋谷で見かけていたマリオカート族(時代を感じるね)
ただ走ってないで、暴走すればいいのにといつも思っていたのだけど。
かつて平成の渋谷というのはたしかにゲームの街だった。

>深夜アニメの美少女の設定で言った

の「設定」という語感にも、いかにもなヴィデオゲームっぽさがある。
いっぽうで、総体的には最狂の罰ゲームという感じも受けるのだが。
本当はいまだってセンター街に繰り出して、JC達と戯れたいのだけど、
そいゆうのが赦されるキャラでも年齢でも到底ないので。
実行にうつせば逮捕されて終わりだ。
なにをやってもゲームオーバー、ゆえに、何もすることがない街、
おっさんには冷たい街ですよ渋谷は。

>あの「渋谷」というのは
>渋谷区の中には収まっていないんじゃない
>だろうか

平成以降、ダウンタウンも浜崎あゆみも存在しえなかったように、
平成以降に「渋谷」はないのかもしれない。
ユーチューブでヒカキンが謝罪しているのをよそに、まっちゃんの
「とうとう出たね。。。」のトーンがガチすぎてやはり本物だと確信し
ましたね。尻の軽い女は口も軽い。覚えといた方がええで男たちよ。
(アウトやないですか...)

>監督以下、スタッフ15名に
>トマトを投げつけられる。
>もちろん僕があとで全部、
>おいしくいただきました。
>きみの投げたトマトだけ、腐っている。
>かじった。かじると、
>「火球?」と、
>はじめて煙草を買いに行かされた時の、
>銘柄を店員さんに聞き返す、
>あの顔と間で固まった。
>食べきった。
>おなかはちゃんと、こわれた。

「監督以下」にトマトを投げつけられる
いけにえのゲームの最中「きみの投げたトマトだけ、腐っている」
のは何故だろうか。
さらにはそれを食べてしまい、きっちりお腹をこわしてもいる。
読み手は一般的な宗教説話的「供犠」解釈に当てはめていいものか、
判断がつかない。
この、イメージ結像させずにあいまいにし、
ナラティブを失敗させることであえて全体を断片化させるのが、
サバカンさんのやり口の核心部分だと感じる。

「供犠」で思い出すのは、ゼロ年代から特に文化面で
セクショナリズム再評価の機運がたかまり、と同時に、
大江健三郎の「宙返り」よろしくメシアがいないなら
その模造品を捏造すればいい、という現象があちらこちらで起きた。
これは詩の領域も例外ではなかった。
文学極道の濃厚な自己参照性を思い起こそう。
以降の、残党の小セクトでの巧妙に敷かれたその延長性、
しかしどんなに表向き反文極を偽装してはいてもすぐにボロは出る。

所詮、メシアは極内輪の一機能に過ぎない。

>適当にしゃべり続け、
>適当に勘定を済ませ続け、
>適当にながれ続ける僕たちの口から
>「優勝」の二文字が刻みつけられたサイコロ
>が転がりだす日がくるのだろうか、と
>夜中、考える
>僕の器官に、誠実さがなかったら、なかった
>としたら
>どうしよう。
>胃袋は鳴り続けるだけで、ここに「誠実さ」
>があるとは思えない。
>腹が減れば鳴り続ける器官に
>僕たちの欲する「秘密」が
>隠されていなかったら
>どうすればいい

その偽物が空虚なのは心理化を全景化した存在であるにも関わらず、
その者自身がメシア=いけにえの構造を拒んでいるからだ。
したがってそこには予め、誠意も秘密も、ありゃしないのである。
そりゃ成功するはずないわな。
結果としてムーブメントの挫折の記憶だけが堆積していく。

(全てがフェイクと主張したいわけではない。
安倍晋三のあの無残な最期、
クレヨンしんちゃんの作者の岩山からの墜落死や、
「4時ですよーだ」の頃、
まっちゃんの実家に突撃したら
創価のポスターが貼ってて後にボカシが入ったとか、
歴史を彩るの符牒はあるにはあり
つまり「いけにえ」問題は現実にある)

>「すべて、あなたのためで、
>わたしは、
>ワトソン君をやればいいの?
>私の手記では
>あなたを「正確」に
>「歴史」にはめていけるか
>自信はないけれど。

>報酬は高くつくよ。
>他人の時間を、
>ただ、だと勘違いしている為政者が
>「生きている間」ずっと、玉座に座り続けて
>いられないように
>「報酬」は高いよ。
>で、どこにふりそそげばいいの?」

>あなたの「中身」を押し出す穴を
>押し出す時、
>あなたの「アウトプット」から
>ぬるとぽ、ぬるとぽ、出てくるサイコロは
>7や15などの
>ちゃんと予測がつかないよう、
>悲しいくらいに一貫性のない数字を示す

資本主義の選別の関数が盲目的に動くなかで、歴史の展開は誰の目
にも見えなくなる。終末論的にそれら壊れ物を扱うように結集させる
ことで、それは一見「貢献」のように偽装しても、実のところ
マッチポンプで最初から閉じたゲームでしかない。解放を目指せば
目指すほど自閉していく。椹木野衣曰く「悪い場所」は、まさに
この構造を指している。

>「火球?」に出会った時のように
>凝り固まる

>「YOUNG」の綴りを変えてしまえば
>ただ老いていくだけだと
>信じているサイコロは単純明快、明朗会計、
>1から6までを出し続ける
>その安心感を抱く。
>その安心感が乖離しないように
>ぼくらはそれ用の「契約」を結ぶ、むすぶ、
>結ぶ
>ほころびをごまかすために
>あくまでも
>「契約」がしっかり甘くなるように
>蜂や、ホテルや、「契約」や、麻酔を
>しぼったものと、混ぜる

>利他的にみせたのに、
>バレる傲慢さを、焼却するように
>「で、どこにふりそそげばいいの?」

渋谷ではいろいろな目にあってきた。そのいちいちが「火球」だった
という自負は、結構あるな。それらは友達でも女でも先輩でもなんでも
なく、みないちように「火球」。渋谷はどう森ではありえず、端的に
ストファイである。

>「約束か、秘密、守れるの?」
>片言て聞き返される。
>からい。からすぎる。

世の中は可処分時間を奪うためのコンテンツであふれているが、社会は
暇人を置き去りにして、途方もないスピードで動いている。できる者は
上に昇り、凡人は淘汰されていく。システムは誰にも期待などしていない。
ただ「試す」だけだ。忍耐させて生き残った僅かな人間にだけ、それなり
の形の花束を与える。とどのつまり同意か敗退か。成長したい人と凡人。

>本を閉じるように耳を閉じる事もたやすい
>閉じたまま
>「きみをあいしている。」と言ってみる

この一節を読んでユングの「なぜ手に入らない存在ばかりに出会うのか?」
という話を思い出した。男が忘れられないのは女ではなく「女の影」
(男性の内なる女性性としてのアニマ)なのだという、あれである。

若かった頃は、金曜日の夜に、よくひとりで渋谷に行って、スタバでゆっくり
読書をする等していた。疲れ切って何もやりたくないし、何も考えたくない
気分だから。私みたいな凡夫にとって、渋谷は何もやることがない街だから。
目に映るすべてが無関心だから。だから、からっぽになれる気がして。

>それはわからない
>   わかりたくない
>   しらないほうがいい
>   ためすのか、ほんとうに
>   まちがえてはいけないものを
>   うたえるだろうか?

透明な切なさがある。

一読して失われた渋谷「感覚」を書いたものであると感受したのだった。
あくまで感覚であって地理ではない。かつてはあったが今はもうどこにもない。
読む時には喚起せずともふと思い出す時にはっきりと浮かび上がってくる、
というような性質であり、
換言すると、表象を狡猾に断絶することで意味を
超えた言語的価値が浮かび上がってくる、という仕組みをしている。

これは結構ヤバイことであって、
身近な例でいうと本当にひどい悪口はパッと聞き理解できなくて、
あとになってじわじわ効いてくるものなのだけどサバカンさんの言語も、
そのような息を吐くような悪口にも似た「加害性」に依拠しているように
思われる。

あと、これはおまいうなのだが、あまり同時代的な評価に引っ張って論じたくない、
というのもある。「j-walkを知らない子供たち」じゃないが、若い人たちが
どのような解釈を与えるのか、かなり興味がある。


散文(批評随筆小説等) 鯖詰缶太郎さんの詩を読む Copyright おまる 2025-11-02 09:08:50
notebook Home