リトルブレイン
おまる

同僚に競馬狂のおとこがいる。名前は「悦光」といって、これで”エツミツ”でも”エツコウ”でもなく”エツヒコ”と呼ぶ。もうずいぶん前に、エツヒコに半ば強引にひきつれられて、東京競馬場にいったことがあった。晴れた日の富士山の、まるで北斎の富嶽三十六景のような堂に入った姿を崇められ、また競馬の勉強にもなったわけで、有意義な休日だった。ただ、肝心の賭け事の方は、本レースで一番人気の馬、単勝で勝負。我が人生時の時といわんばかりの気焔を揚げ、これに挑んだが、あえなく敗着した。さようなら五千円。これには興も殺げて、そのまま帰ってしまいたかった。五月の鯉の吹流しとは、人間なかなかいかないものだ。自分は賭け事で負けると、知らず知らず感情的になって、忽ち品が無くなるタイプの人間だということを認識した。となりで黙々と”おしごと”を執行していたエツヒコは(京都競馬場の方でも賭けていた)なんと万馬券を釣っていた。小銭がウン万円に化ける様は、流石にダイナミックである。おれは「うわあ、剣呑」と、おもわず呟いていた。

競馬"狂"なのだから、借金もこさえる。多重債務が膨れあがって、もうウン百程にもなってんだよ、ガハッ!と自慢してた。そればかりではない。いざという時はお父上に泣きついて、解決してもらう、ということをなんべんも繰返している。しかもこれ、本人が自慢ったらしく語るのだから、アレだ、「つける薬がない」のだ。

何にも考えずに済むのが、サラリーマンのよいところというか悪いところというか、悩む前に忙殺されちゃうってのは、ある意味しあわせなのだろうが、朝に茫然としながら起きて、いつもと同じ時間の電車に乗って、オフィスの入り口でもう一度うつけてびっくりした経験がある。そういう日でも不思議と事務能力は低下せず、むしろ不思議と能率がよかったりして、つまりはサラリーマンというものは、茫然自失してからが勝負なのである。

その時、オフィスの時刻は終電近く、おれ以外に他数名しか居り合せていなかった。うしろの島に、後輩の女の子がいた。その子は"本家"と名字が同じなので「カトパン」と呼ばれており、つきあいも良くて、まわりの諸先輩からも可愛がられていた。カトパンが席を立ち、おれのデスクのすぐ近くにある冷蔵庫に向かってきた。微妙な足音の調子から彼女が近づいていることがわかる。すぐ後ろ、歩いてくる音がする。そして、目の前を通る。フワっ、といい匂いがした。勿論、おれはモニターを凝視している。彼女を見ないように「努力」しているのだ。おれは、おれの目の前を通る誰であろうと、その人を見ることはない。興味が無いから。ところが、彼女に対してだけは「わざと見ない」ような感覚を持っている。それは、このシチュエーションに限定されない。のみならず、この感覚は、ほかならぬカトパンも、おれに対して抱いているのではなかろうか?という、根も葉もない、ひとつの仮説に帰結していた。全くの妄想である事はわかっている。わかってはいるのだ。

例えばこういう事が起きる。いつものように、カトパンが後ろから歩いてくる。そして視界に入ったその矢先、間違って彼女を見てしまった。すると、彼女もおれを見ていた。そして、まるで事前にそうなることを予測していたかのように、可愛らしい顔で苦笑いしながら、

「見ないで下さい」

カトパンは見た目の印象より、いくぶん、のぶとくて、低い声の持ち主である。「うわっー!」と驚いたりすると本当に男のような声を出す。大のF1ファンらしく、これも意外性というか、女の趣味にしては、珍しい。チャットのアカウントに、いつも「~GP」という表記があり、それはF1レースのシリーズ名である。なお、シリーズが変わる都度、更新される。おれ、F1のこと、寡聞にして知らない。そういえばオーストリア人の知り合いで、F1大好き!って奴がいるが日本人の知り合いで、F1観戦が趣味っていう人は、いない。カトパンは何か長期休暇があると必ずヨーロッパに旅行する。まず間違いなく、家は金持ちだろう。何故なら、おれの後輩が、そんなに給料貰っているはずがない。それでも、年に数回、ヨーロッパに旅行にいけるってのは、一体その財力はどこから捻出しているというのか?家が金持ちと結論づけるほかないではないか、いや別の意味の「パパ」がいたら、話は別だが。

愉快な我が同僚諸君と上野にある「鷹」というステーキ屋に行った。店内は落ち着いた雰囲気で、まどかに広がるカウンターを構え、目前にてシェフが鉄板で調理してくれる。メニューを開いたら吃驚。1g単位の価格が載っているではありませんか!おれは何も考えずに最高級ランクを300gオーダーしたのだった。上質なお肉の晩餐は、それだけで何とも言えない優位性を演出する。口にすると、それはまるであらかじめ人に奉仕する為にこの世に存在するかの如く、舌を喜ばせる。また、旨い物は人を饒舌にさせるのである。大いに盛り上がり。誘った女の子達も楽しんでいた。ターゲットの女の子をお持ち帰りしちゃおっかな~と、エツヒコにコッソリその旨耳打ちしたら 

「今回は初対面だし、他社の子だし、なんかやらかすと噂が立つ可能性があるから、LINEだけにしとけ」

と窘められちゃった。というわけで、旨い肉を食い、ギネスビールをしこたま飲んで、女の子と面白可笑しく話をして、にぎやかな一時を過ごして。おれは、こういうのに脆弱だ、だらしがない。享楽に抗えなくなって、どこまでも、どこまでも、どこまでも落ちてゆくような、シカシ今、ワタクシハ、今、何ヲシテイルノダロウ?ココハ、店デハナイ、真暗ダ、シカシ、ダトスルナラバ、そんな感じでグルグルと逡巡してたらもう朝になっていた。車の排気の音が目覚まし代わりに。ここはドコなのだろう?と辺りを見まわしたら、どうやら、五反田のソープランド傍の駐車場で雑魚寝していたらしい。人として終わってる。

「っあ」

と蒼白して、あわてて上司に緊急連絡した。

「おはようございます。あの、昨日、わたくし、何かやらかしましたでしょうか」

「いや」

「え、でも」

「いや」

「というと」

「大丈夫」

「えっ、えっ」  

プッ プープープー、、、

フル回転する脳みそ。しかし幾ら考えても、自分の行動理論から納得のいく答えを導き出すことは不可能だった。こんな時、おれはいつも或る言葉を反芻するのである。

「時間が、解決してくれる」

ボケ、としてたらいつの間にか二十代も後半にさしかかろうとしていた。二十数度目の春。でも、懐古する程の回数でも無い。まだまだケツの青い餓鬼のくせに何を達観するのだ?大井町線に乗車して、たまプラーザの素晴らしき景観にウットリしながら最果ての地、「中央林間」駅に着地。隔月で、某社データセンターの保守に来ているのだ。そこには、おれの知らない日常がある。日常だけど、近づけない日常。ゆえにたまらなく美しく感じるが、「日常を傍観して味わっている」というと、バチ当たりというか、現地の住人から顰蹙を買いそうだ。荒涼としたサーバールームでひとり、ひとしきり作業を終えたら、データセンターを抜け出して外で昼飯をとる。会社のお昼休み時に食欲がわかないのは、なんだか切ない。食べたくもないコンビニのおにぎりを頬張りながら、あたりをウロツイていると、フェンスで区切られた小さな公園を見つけた。今日は風が強く、団地の住棟間から風が吹き込む中で、キッズがバトミントンに熱中していた。ワンパクな奴らだ。今日の救いと言えば、カラリとした青い空くらい。寒空の下、強い日差しが無数の窓に反射していた。

特に何にもやる事がないから公園をぼんやり見ていた。子供らの話声が耳に入ってくる。それらは本当に他愛のない、何気ない一連のやり取り。微笑ましいが、彼らは彼らなりに一生懸命何かを主張していた。大人も子供も変わらんのだなと思う。デートには車を使うようにしている。特にこれといった目的もなく、東京の知らないところをグルグルとまわる。運転中、おれは女の子と、とりとめの無い話ばかりしている。まるで連想ゲームのように言葉を使い捨てていく。そういう、実にならない、軽い会話のやりとりの中で、時折、窓から移ろう景色がおれたちを捉える。「アー、アレスゴイネー」とか「キレイダネ」とか言いあいながら、ドライブは一種の、共感の儀式のようである。イルミネーション巡りというのをやった。丸の内や恵比寿の華麗さ。えてして都会人というのは本音と建前を持っているものだが、これには女の子も本心から満足してくれているようだった。ところで、別に、おれはドライブが好きなのではない。寧ろ、ドライブに付随するもの、すなわち、アーバン・ライフの逸楽というものがおれを魅了してやまない。言うまでもなく、田舎者だからだ。また、忘れてはいけないのが首都高速。東京オリンピックの開催にあわせて、急ピッチで作り上げられたという、そして確かにどこかレトロな雰囲気を残しているドライビング・ツール。この道路を走っているときにおちいる都市を俯瞰しているかのような錯覚、「アーバンな逸楽」そのものという気にもなるワケだ。自分から進んで知らないところに迷い込むというのもアリである。眺めていて、おもいもよらない場所に、家や建築があると感興をそそる。住宅街にひとつだけ、浮き上がったような前衛的な建築があったり、袋小路に、場違いな大豪邸があったりすると、呆れたのか感心したのか、何かため息が出てくる。そこで生きている人々がいる。異次元の日常を垣間見るような。

恵比寿のレストランで食事を済ませ、女の子がすっかり和んできたら「勝利の方程式」を発動させる時である。アクセルを踏み込んで首都高から川口方面へ疾走し、そして楽しげな会話から一転、何の前触れもなく、車は突然Uターンし、煌びやかなモーテルへ吸い込まれていくのだ。

「えっ」

「大丈夫だよ、ちょっと休むだけだから」

「えっ、えっ」

「だいじょーぶ、おれにまかせて!」

出社したら、なぜかエツヒコが肚を立てていた。ミーティングで、人目もはばからず、先日の業務トラブルについて、その責任は全ておれにあると、凄まじい剣幕でガン詰めしてきた。面食らったおれは、浮かせた腰をおもわず前へのめらせながら夢中で彼を凝視するほかなかった。ただ(これは被害妄想かもしれないが)なんとなく妙だった。本当は業務トラブルはどーでもよく、ブチ切れる「火種」さえあれば何でもよかった、という気配もあった。そうだとしても、いったい何に対して肚を立てているのか、皆目見当がつかん。午前中からずっとイライラが止まらなかった。昼休み、外の自動販売機の所で、痴呆のごとく、つっ立っていると、カトパンが来た。缶コーヒーをおごって雑談したら、あっさりと午前の真相を知ることができた。どうも、例の女の子とデートしたことを黙っていたことが、エツヒコには赦せなかったらしい。そんなこと聞いたら憤るしかない。何様なんだよ?。いっちょまえに日焼けサロンで焼いてるボンボンが、自分がリーダーかなにかだと己惚れていやがる。

「ほんっと気持ち悪りぃ奴だな」

と毒ずくと、カトパンから

「その子と連絡先を交換できたのは、彼のおかげでもあるから、まずは感謝の気持ちを伝えた方がいいと思うよ」

と、やんわりたしなめられた。

エツヒコは、日本人には珍しいほど鼻筋が太く大きい、威相の持ち主である。馬の嘶くような甲高い大声で喋る男である。こいつには裏の顔がある。自分はその他大勢とは違う。特別な存在なのだと世間にどうしても認めてもらいたい、そのためなら何でもするし何をしようが構わないという類のクソ野郎である。新人時代、合宿研修での出来事である。夜中におれの部屋に押しかけてくるやいなや「10万貸せ」とやってきた。彼独特の妙な迫力に気圧されて、断り切れなかった。果たしてこんな男とうまくやっていけるのかどうか、俄かに疑いが深まり、その夜はまともに眠れなかった。それでも悩みに悩んだあげく貸してやることにした。当時のおれはというと、ひとりぼっちで田舎から東京に出てきたイモで、孤独で心細かったのである。相手がおれのそうした暗く鬱屈した状況や、卑屈な性格も含めて、計算ずくでやっているのはあきらかであり、とどのつまり舐められているのだとしても、初っ端から人間関係を御破算にはしたくなかった。もっとも、最初からこんなふうに受け身になったのがマズかったのだ。ここで毅然とした態度で拒否すれば、やつの鴨にならずに済み、また関係性も大きく変わっていたに違いない。この出来事は、おれが「受け身な奴」かどうかはっきりさせるために奴が仕掛けた”賭け”だったのだ。そして奴はギャンブルに勝ち、おれは自覚もないまま、負かされたのだ。

あのころは山手線に乗ると、まるで荘厳華麗な極彩色の絵巻が目の前を流れるように、街の稜線と、広告の数々が輝いて見えた。ヴィヴィッドな景色に立ち眩みながら新宿駅に降り立って、とりあえずエツヒコと待ち合わせをしていた「東口」とやらのありかを交番に聞きに行った。

「あ?東口?んなもん、云々、、、」

と完全に田舎者を馬鹿にしたふてぶてしい口調で教える警察官。何も知らないおれは「これが東京弁っちゅうやつかな?」とトチ狂って有難がっていた。それまで住んでいた田舎は全てミニチュア、人も建物も。おれはまるで小人の国に迷い込んだ巨人のように、欝々とした日々をおくっていた。新宿の高層建築群を目の前にした時は、かんぜんに逆。身のまわりのものすべてが大きかった子供の頃にタイムスリップしたような、ノスタルジアの中で浮遊している感覚になった。そんなふうにキョドキョドしているイモ野郎を、エツヒコが捕獲し、靖国通りに出て歌舞伎町に吸い込まれていった。気がついたら「イリウス」というタンニング・ルームの中で彼と一緒に、オイルを塗りあっていた。これから自分の身に何が起きるのか全く想像すら出来なかった。ブウウン、と音が鳴る蛍光灯が敷き詰められたマシンの中に入ると、全身にビームが照射された。

「ううあああああああー」

マシンから解放された後、這いずるように通路を回遊していたら、全身にポマードを塗ったくったように黒く光ったエツヒコとはち合わせた。

「なんでこんな店に連れてきたの?」

「だってお前、白いだろ」

所詮、粋がり甘えん坊のボンボンを信じたおれが、柄にもなく甘かったのだ...!”返済期日”はとうに過ぎていたが、金が返って来る様子はまったくなかったのである。「田舎モンが」って、バカにして、鼻でせせら笑っていやがる。ついにおれはエツヒコに

「いい加減にしろ!はやく10万返せ!」

と詰め寄った。相手は元カノに学友にその親族にと、あちこちで金を借りては踏み倒している借金のプロである。

「逆にさ、かえせないもんは、しかたないでしょ?」

云々とのらりくらり。これはこれで設楽統風の泣きの入った芸であり存外に効いてくる。おもわず

「サラ金から借りてこいよ!」

とぶん殴るように怒鳴りつけた。彼は、目を細めておれを睨みつけていた。

「君とは距離を置かざるを得ないな」

などと、捨て科白をはいていたが。糞が。けっきょくおれのパラノイア的な取立てに根負けしたのか、休日に金を返すと約束をとりつけた。当日、池袋駅で待ち合わせしたが、約束の時間を過ぎても、いっこうに現れる様子がなかった。「もう着いているんだが」とメールすると「見当たらないね、もう帰るわ」とふざけた返信が来た。「自分勝手だなあ、ちゃんと金かえ、、」というメールを作成していた矢先、構内にいるエツヒコを発見、捕獲(殴りはしなかった)。一応金はきちんと揃えて返してきた。これで一矢報いたわけだが、それまでのこと。爾来、プライベートでの付き合いはほとんどない。いまどんな女と付き合っているのかとか、そもそも職場の外ではどんな顔をしているとか、いっさい知らない。

どういう風の吹き回しか、じつに数年ぶりに「週末、つきあえよ」と、エツヒコが声をかけてきた。新人だったあの頃から、うろつく場所が変わってなかった。まず新宿である。新宿伊勢丹、表参道、銀座、

「タイムトラベルに往こうぜ」

と言ってきた。果て、何の事かとおもったら、なんのことはない、時計屋巡りの事なのだった。彼が嗜好品に現を抜かすのに付き合えと。でも、おれにとっては金の無い休日である。全然、贅沢が好きではないし、況してや、遊び人を気取る事さえ覚束無い、ただのサラリーマンである。表参道に寄った折には「ISHIDA」に往くのが、慣わしになっているようだ。本来ならおれは此処の門を潜る「手形」すら持ち合わせていないのだった。因みにおれが愛用している腕時計はシチズン(小市民)店の中は、硝子ケースが並べてあって、向こうに販売員が構えているという按配である。こうなってくると"小市民"は商品を見るのも億劫になる。居るだけで褻涜であるように感じる。しかし、それでも視界には、魅力的なオヴジェが敷き詰められている。「girardperregaux」だなんて、こんな風に文字に写すだけでも、こじゃれてる。エツヒコは身に包んだバーニーズ・ニューヨークの洋服を捲り上げて、ウリウリとblancpainのフィフティファゾムスを見せつけながら、店員とお得意のハッタリ交渉を楽しんでいる。寧ろ彼の本来の欲望とはこういう所で、蒐集した機械式時計の知識を発散する事なのだろう。ただ、それを相手取る向こうはどうおもっているのだろうか?彼が運転するベンツで、銀座にむかっている途中、いきなり

「おれ、結婚するわ」

「あ、そうなの?おめでとう」

今日の目当ては銀座のショパールにて、未来の奥方の結婚指輪を物色することだったようだ。なぜおれを引き連れているのか、釈然としないがだまっていた。ショパール入店後も勿論、何時ものハッタリ外交で、それに対し店員は温和に接していたのであるが、ふと、こう言った。

「どのようなものをお探しでしょうか?」

「んーどうですかねぇ、イメージとしては」

と、彼は金額の事は一旦度外視して、イメージだけを店員に伝えた。

「当節としてはこちらで御座いますかね」

提示された指輪は、まさに彼のお眼鏡にかなう品だった。ダイヤモンドの粒が、まるでfractaleの様な美しさで輪になっていた。

「おおーこれです、これが良いー」

「こちらになります」

「9百万円」

「うほ」

その時の彼の辟易ぶりは面白かった。にこーっとしている店員は暗に示したのだ。「黙れよ」と。そのあと、青山通りの裏手にある駐車場に車を止めて、通りに出る。暫く歩いていくと、いくつかの紳士服店をめぐる。一応サラリーマンという身の上、衣服類では唯一スーツにだけは興味があるので、ブランド品で埋め尽くされた青山通り沿いでも、退屈しなくてすむ。最初にはいった店内は日本とは異質な、型の如き「アメリカ風」だった。焦げ茶色の渋い基調、エグゼクティブを想起させる、輝くような歯茎の、笑顔のモデルの写真、どいつもこいつも、資本の手先どもである。エツヒコは「これぞアメリカの良心」と愛してやまない。入ると扉正面に大きな写真が掛けてある。スーツを着たスーパーモデルの外人たちがヘラヘラ笑いながらレッドカーペットを歩いて壇上にむかっている風の写真。おれはこの写真が放つ黒い霊気に神経が刺激された。

「完全に日本人を馬鹿にしてんだろ、これ」

「ああ、お前もこの写真が気になるか。この写真こそ俺のイデアを凝集しているよ」

と彼は遠い目をしながら言った。

その他何店かのテーラーに冷かしにいって、何時の間にか原宿駅付近にまで来ていた。丁度、目をつけているというマンションがあるという。「ベルテ表参道」というマンション。築三十年の古い物件らしいのだが、坂に段々と造られている建築全体が陶器の様な美しいタイル張りで、品の良い。表参道という土地柄と相違の無いというか、溶け込んでいるというか、こんなとんでもないマンション、おれには縁がないし、コイツがいくらボンボンだからといっても、さすがに身の丈にあってないのではないかな?

前々から東京駅八重洲口方面が、東京都内で最も「東京らしい」と感じていた。しかし、その説明が、上手く出来ないでもいた。この地域の、高層ビルに紛れ込むような形で老舗が軒を連ねる妙なアナクロリズムは素晴らしいが、しかしだからといって、此れが「東京らしさ」の定立点であるとは、どうしても思えない。ある日、仕事がいつものごとく深夜に及んで、やむを得ず「サウナホテル湯楽三昧」に泊まる事になった。平日に関わらずほぼ満員であった。なかは色々な人達でごった返している。のみならず皆疲れてもいる。そんな人々が、小さなテナントの中で黙って鮨詰めになっている。おいもわかきも、おとこもおんなも、こういうのが、雰囲気なのだろう。そうだ、雰囲気とは、場所からではなく、人から発せられるものだ。ヘトヘトに疲れているから、目をつぶった瞬間、もう朝になってしまう。店を出て、或るカフェに入った。何の変哲もない、トーストとコーヒーを頼んで、出されるのを待っている間、壁に飾ってある絵を見ていた。

額縁にはミロとピカソ、共に西班牙の画家、のポスターが飾っていた。それとデュフィ調の明るい、安定した構図。一時の安堵を感じながらも、これが「東京らしい」雰囲気であるとは思わない。それよりも、店長の老人と、店番の女の親子の様に仲が良さそうな姿や、煙草を燻らせながら静かに笑っている中年のサラリーマン、クレオパトラみたいに鼻の高い、トレンチコートを着た女が、英語の雑誌を読んでいたりするその様や、その一々が、どうしようもなくおれを孤独にする。孤独。そう、これこそが「東京らしい」とおもう。彼らが航海を生業としたクルーだとしたら、おれはその傍らで、唯漂流しているだけのクラゲの如き、かよわい存在だ。それを最も強烈に感じさせる場所こそ東京の名を冠するに相応しい。

仕事中は、雑談をほとんどしない。それはみんなも同じであった。そんな自分自身について、彼らがどうおもっているのか、知りたくもない。入社したての頃は、ただの世間知らずの青年で、無欲と真面目さだけが取り柄だった。この生活に慣れてくると、文学にハマり、悪い遊びを覚えて、出世レースはそっちのけになった。「これではいかんな」と内心気づいてもいたのだが。オフィスは、2つの駅の中間にあったので、どちらの駅から出ても、約15分ほど歩く必要があった。辺りは全てがコンクリート張りの、デコボコの地形で、高所に団地や住居街や公園があり、そこから急な階段を降りて、すぐ目と鼻の先に、大きな車道があった。交通量も多い。小さな子供が、一人で公園から道路の所まで降りていったら大変じゃないかと想った。親が目を離したすきに道路に飛び出て、事故で死ぬ事もあるではないかな、とか。車道沿いには、有名な施設がいくらでもあった。幼稚舎、有名校、芸能事務所、高級雑貨店、等々、意外だが、それらは何十年も前から同じ姿を保っている。すぐ近くに、草彅剛が全裸で走り回ったとされる、例の大きな公園があった。オフィスの入った一室は、狭いにしても土地柄からすれば、やけに賃貸が安いらしく、ひょっとすると事故物件なのではないかと、みんなと冗談めかして話をした。この部屋に出入りするだけの単調な生活。ベランダに、観葉植物が置いてあった。おれが率先して水をまいていた。正月休みでも植物たちが気になって、出社したりしていた。電話で、こそこそと顧客とやりとりしていると、その様子を見ていた上司のマスダさんから、

「いまどんな話になってんの?」

と聞かれた。うっ。本当にこの人は、異様に勘が鋭い。すかさず急所に手を伸ばしてくる。みんな見ている中で、「通話モニター」をONにしたままで、もう一度電話をかけなおさせられた。通話を終えると、

「なんだあの(客の声の)感じは?今まで何を話してたんだよ、おまえ」

は、はわわわぁ、と経緯をひとしきり説明すると、

「おまえテキトーなこといってるんだろ?」

そして、

「質問にYESかNOで答えろ」

と尋問するような真似をしてきた。四十過ぎのおっさんが、本気でカッとなっている。おっかない。YESかNOかで答えようのないような理不尽な質問ばかりされて、困り果ててしまい、しどろもどろになっていると

「だからYESかNOかでいえよっ」

と怒鳴り散らされた。これじゃ逃げ場がないだろ、人前で"ホラッちょ"の烙印をおされてるようなものだ。「あいつは仕事できる、できない」だとかの、クソくだらない、仲間内の格付けの世界で生きているのだ。耐えられなくなって、おもわず近所のドトールコーヒーに避難。しばらく瞑想して、心を整えて、いざ職場に戻ると、やわらかな笑みをたたえたマスダさんから一言、

「おまえそんな覇気がない様子で、だれが付き合いたいとおもう?もっと第三者的に自分をみなさい」

ガクぅっ、今日もサウナに行こう。

マスダさんが、閑散としたオフィス街を歩いていく。カッカッと、革靴の、地面を踏む音を、あたりに響かせていた。オフィスに入ると、独特な、無機質な臭いが漂っていた。すでに数人がデスクに座っていた。部屋に入るや否や、みんなの表情は一瞬、独特の緊張の色を帯びた。

「さっさとしろ!私に対する説明に時間かけてどうすんだよ」

「はい、、はい」

部下たちはいそいそと自分の席に戻って行く。みんな、いつもいつも、この男の神経を恐れていた。マスダさんにとっては、部下なんぞ、いける屍同然だった。

「はい」
「了解です」
「わかりました」

返事だけは良い。それだけ。マスダさんは我慢しているがほんとうは「お前らは屑だ、辞めてしまえ」と罵声を吐きたいのだ。昔から、いいたい事を、かなり激しくいう人なのだ、これでもずいぶん、丸くなってはきているのだが。そんななかで、最近のカトパンの活躍ぶりは、目を見張るものがあった。"THE・クラッシャー"のマスダさんも、彼女だけは好きにやらせているので、自然とまわりも勘付いていた。「上がっていくのは彼女だな」と。まさか、新人の頃、メソメソ泣いてたあのカトパンが。日々マスダさんのサンドバックになるしか能のない、おれたちは秘かに凹んでいた。「自分は選ばれなかっただけ」という事実を突きつけられていた。

或る日、こんな夢を見た。


「こんばんわ」

おれ
「わ!君はいつも、突然、現れるんだよなあ」


「あの、すみません、本当に突然なんですけど、神様にお目にかかったことはありますか?」

おれ
「ん、まあ、それは」


「実は、商売を始めようとおもってまして」

おれ
「と、いうと?」


「その、神様に、商い成就の祈願をしたいのです」

おれ
「あ、なるほど、それでおれに協力してほしいってわけだ」


「一から探すより、素性が知れてて信頼できる人に、頼む方がいいとおもって、でも、神様に会うのは、大変そうだから、無理かな?」

おれ
「きみは、猫だから、先ずは人に化ける、そして、その人の知り合いになりすましたおれと、一緒に行って、神様に御願いする、そんなところだな、もちろん、いいよ」


「本当?ありがとう」

おれ
「ちなみに、化ける人の、当てはあるの?」


「あります、今、作戦を練ってる最中」

おれ
「ってことは、化ける相手、つまりお金を持っている人が、知り合いにいるんだ?」


「たまたま良い出会いがあって」

おれ
「どんな人なの?」


「まだ若いのに、すごいお金持ち、悪い人かも、でも、素直で憎めないっていうか」

おれ
「とにかく、好きなんだな」


「てへへ、今日は本当に良いこと聞きました、ありがとう、またお話しましょ」

おれ
「うん、またな」

「何か企んでるな。おれは君のこと、何にも知らないよ」

翌日、カトパンが起業する話を、ほかの同僚から聞いたのだった。とある金持ちがカトパンに出資したいと申し出ており、すでに経営計画書も出来上がっているらしい。この激務の日々で、いつのまに?と、いうよりほかない。仕事をきりあげて、だれもいないオフィスを出た。もう深夜0時を過ぎていた。ビルとコンビニと、深夜営業している飲食店が疎らにあるだけだった。うじゃうじゃ人が湧いているか、閑散としているか、そのどちらかしかない極端な街。本当は、だれも住んじゃいない街。おれは一人で、トボトボと地下鉄へ歩いていった。地面ばかりを見ながら。

エツヒコの結婚式に行ってきた。舞浜のシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル。盛大な式だったよ。まあ頭のネジが外れてるというか、こいつ結婚して大丈夫なのかな?と思った。嫁も、おれの後輩。ちょっとまえに退社した。金持ちの息子で、親がド都心にビル持ってるような奴なので、仕事できなくても、心に余裕があるのかもな。ムカつく奴だけど、結婚式に呼んでくれるのだから、お祝いしますよ。大人になると、いろいろ人を見る目が変わってくるね。

ふたりは数年も続いていたらしいが、会社で気づいていたのは、ほんの数人だった。当人たちも隠そうとしていたが、そもそも誰もが自分のことで精いっぱいで、他人に無関心だったんだ。

ちょっと前に、川口のショッピングモールのフードコートで働いていた女の子を、なんとか口説けないかと頑張ってみたんだけどさ。はじめどうだったか、ちょっと不確かにしかおもい出せないので、なんつーか、たらればになりそうなんだけど。結局、おれはその娘に声をかけてみたんだよね。何の話題だったかは忘れちゃったけど、共通事項があって、意外と会話が弾んだ、ということだけは覚えてる。たしか、地元の話とかで、それで、すんなり、話だけはしてくれるくらいの関係性は築けて、まあ、連絡先を聞く勇気はなかったけど、その後もフードコートに凸して、その娘がいたら、ほんのちょっと話しかける、ということを、なんべんか繰り返してた。ある日、いつものようにフードコートに行ったんだけど、その娘はいなくて。別に、それはそれでいい、「飯を食って帰ろ」となるだけだから。しばらくメニューを見ていたら、後ろから、知らない女の人に声をかけられた。話を聞いたら、なんと、あの娘の母親だった。「今度、娘のダンスの発表会があるから、来てほしい」と言われて、チケットを手渡された。でもさ、おれ、行かなかったんだよね。その、何でなのか、理由が、うまく言えないのだけど。そのあとはフードコートにもいっさい行かなくなった。


散文(批評随筆小説等) リトルブレイン Copyright おまる 2025-09-17 18:34:46
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