机の上に射し込む光の川
道草次郎
とある事業所で働いている。四時の会議の前に五分だけ時間があったので、久しぶりに声をかけてみた。その、文学好きの女性の利用者さんは待ってましたというように、堰を切ったように早口で喋り出す。ぼくがふだん余りに忙しそうにしているので、遠慮して話し掛けるのをいつも躊躇うそうだ。
道草さんに聞きたいことがあって、と彼女は唐突な雰囲気で切り出す。
「いわゆる海外の名作、古典と呼ばれる小説の新訳が出ますよね。そういう時は道草さんは目を通されますか?」
ぼくも早口で答える。
「そうだね。名作の新訳は結構出るよね。でもぼくの場合はまずは図書館で借りてさらっと読んでから、気に入ったら買うかも知れないな」
その利用者さんはしょっちゅう「身体と心がバラバラです」、とか、「自分は生きていていいんだろうか」などという類の事を、細かいけれどもよく整った字で日報に書き連ねたりする。
偶然の雑談から互いに文学好きであると知って以来、時折、話をするようになった。職員と利用者という立場の違いはあれど、文学の話に垣根は無いように思われた。
ぼくはつい頭に浮かんだ事を口にしてしまう。
「でもやっぱりサンテグジュペリの『夜間飛行』とか『人間の土地』は、堀口大學の訳で読みたいな。ところでボードレールを堀口大學は訳しているよね。サンテグジュペリとボードレール、おんなじフランスだけど、随分毛色が違ってるよね。おもしろくない?」
途端に彼女も気色ばんで、
「私、『苦海浄土』を読みました。じつはドキュメンタリーは苦手だったんですが、表現が豊かで凄かったです。」
「そうなのだね。ところで、あの長いのを全部読んだの?石牟礼道子さんのあの有名な?」
「はい。一か月かけてよました」
「そうなのだね。それは驚いた。ドリス・レッシングが文学賞を受賞したのに、何で石牟礼道子はとらないのかね、フシギダネ」
彼女は丸い眼鏡の奥の栗鼠みたいな眼をパチクリさせる。「そうですね。ドリス・レッシング知らないな…今度読んでみよ」
彼女はここ数ヶ月、いやここ数年を希死念慮とうつ状態とリストカットに苦しんでいる。そして、そのことがあまりに平常化したせいで、彼女の訴えは、日常の食器のように事業所の空気に馴染んでしまっていた。
ぼくの仕事は何らかのハンデをもつ十人近い数の利用者を就職へ導くこと。だから、普段は認知行動療法だとか、リフレーミング、アサーションなどの言葉を使いその人たちと就職に関する面談を、日々、重ねている。
つまり、本来なら、彼女のように通所さえままならない人は対象外だ。だが、時々ぼくはすき間の時間を見つけては彼女に話かけることにしている。
じつは、堀口大學もドリス・レッシングも石牟礼道子も、ぼくはほんのささやかな書誌的な知識しか持ち合わせていない。若い頃に足繁く通った古本屋の新潮文庫コーナーや、図書館の開架図書を上から下まで舐めるように眺めて過ごした暗鬱時代が上っ面の文学詳しいっぽいおじさんを作り上げたに過ぎない。
彼女はまだまだ話足りない事がわんさとあるんです、という顔で時計に眼をやったが、職員たるぼくの状況を察してくれて、「あ、お時間すみませんでした。」と言い、そそくさとタイムカードを切り風のようにいってしまった。
彼女からは何度か手紙や好きな英文のフレーズを書いたメモを受け取った。ある時は自作のエッセイ集まで。そのどれもが、紙の上に灯る小さな青い焔のようだった。
その一方で、ぼくは日々「わからないこと」を増やしていく。
曖昧を曖昧のまま抱え、やがて時間に溶かしてしまう。
ただ一つ、輪郭をもつ思いがある。――この「わからなさ」こそが自然な流れなのだ。これからも、ますます増えていくだろう。
会議を少し遅らせてしまったことを詫びて席に戻ると、気まずさが漂った。
さっき口にした文学の固有名詞が、蛍のように場違いに光っていた気がして、一気に恥ずかしくなる。
ここは本屋から遠く離れた場所。
けれども、カーテンの隙間から差し込む光が、机の上に静かな川を描いていた。
その川は、一瞬だけ、言葉よりも雄弁だった。