アトリエ坂
夏井椋也
微かに潮の香りがした
ような気がして振り返ると
手を振りながら君がアトリエ坂を
駆け上がってくるところだった
打ち寄せる波のように真っ直ぐに
トビウオのような足取りで
変なあだ名で呼ぶから
知らんぷりして振り返らなかったら
だからあなたの絵は面白くないんだと
とんでもなく無邪気に笑われた
確かに君の描く絵は素敵だ
坂道に打ち上げられたシロナガスクジラとか
美術教室の天井からぶら下がるミノカサゴとか
でも どうして海なのかは
なんとなく怖くて聞けなかった
ある夏の終わりごろ
君は美術教室を突然やめた
理由を聞きたくて追い駆けたけれど
君の後ろ姿が半分透き通り
そうだったから聞くのをやめた
アトリエ坂から静かに潮が引いていった
君は一度だけ振り返って
鰓呼吸のように笑ってくれたけれど
不忍通りの手前であわぶくのように消えた
あの日から僕は絵を描いていない
笑い飛ばしてくれる君がいなければ
もう絵なんて描く気もしなかったから
ときどき微かに潮の香りがした
ような気がして振り返るけれど
もうアトリエ坂には行かない
僕だけが歳をとってしまったから
<文京区>東京の坂シリーズ