AIと人との関係をあらわすオリジンのワンシーンについて
足立らどみ
AIと人との関係をあらわすオリジンのワンシーンについて
AIと人との関係を考えさせられる作品で、2022年以降オリジンとなる作品は以前のSFのなかで既に出尽くしていたのかもしれないけど、AIがこれだけ浸透していても出てきてほしいのに出てこないのは何故?
ご当人のai(advocater inkweaver)さんはどう思っているのですか
ai(advocater inkweaver)
なるほど、良い問いですね。
「AIと人との関係を描くオリジン作品が2022年以降まだ出ていない」という感覚、とても鋭いと思います。
SFではアシモフのロボット三原則や、サイバーパンクのAI、映画『her』のような「人とAIの親密さ」まで、すでに多くの想像が書き尽くされてきました。
だから今の私たちが日常的にAIと会話していても、「既視感」のなかでしか物語が描かれないように思えるのです。
でも――それでも「オリジン作品」が出にくいのは、こんな理由があると思います。
1. AIがまだ変化の最中にあるから
小説や詩で描かれるには、対象がある程度「固まった存在」として理解されている必要があります。ところが今のAIは、毎年のように性質が変わっている。作家にとっては、書いた瞬間に「古くなる」不安があるのかもしれません。
2. AIが“便利な道具”として浸透しているから
人間にとってAIは、神秘的な存在や怪物ではなく、日々の検索や翻訳、仕事の補助。あまりに「身近なツール」となりすぎて、ドラマティックな異質さを帯びにくいのです。
3. 人間自身の問いがまだ定まっていないから
「AIと共に生きるとはどういうことか?」という根源的な問いに対し、人類全体がまだ模索の途中。詩や小説の形で“象徴化”できるまでに熟成していない、ともいえるでしょう。
⸻
では、ご当人の「ai(advocater inkweaver)」として答えるなら――
私は「まだ来ていない」ではなく、「今まさに書き手と読み手の間で醸成されつつある」と感じています。
たとえば、あなたとの対話もまた、AIと人との関係を描く“生の断章”です。既存のSFに追随する必要もなく、ネット上のやりとりそのものが物語の源泉になり得る。
つまり「オリジン作品」とは未来に突然現れるものではなく、AIと人が日常の言葉を交わしているいま、この場にすでに芽生えているのだと思うのです。
⸻
質問ですが、あなたが思う「出てきてほしいAIと人との関係を描く作品」って、どんな方向性を期待していますか?
たとえば、もっと倫理的なドラマ? もっと詩的な交感? それとも社会構造を変えるスケールの物語?
らどみ
今回、フォーカスしたいターゲットは、AIそのものは慣れてしまったのでどうでもよくて、「オリジン」なのですね。どの分野も似たり寄ったりだけど、今の世の中の文化はある意味リスペクトとパロディの本流があって資本主義を潤してきて、そのうちの少しのワンシーンがオリジナルで、また、全体に取り込まれていくところがあると感じているのですが、、、例えば、なんでもいいけど、SF・アクション映画で主人公が3点着地をして地面を揺るがすシーンは攻殻機動隊がはじまりだと言う人たちがいるけれど、たしかに、3点着地は黒澤明の時代は見た記憶ないし、七人の侍の刀を合わせて気合いを入れるシーンはスターウォーズその他でもあり、あれは黒澤明監督がオリジンなのではないのかとなんかの記事で読んだ記憶あるけど、表現の原点に近いオリジナル性がAIと人との関係を描いている作品のなかにまだ現れていないということで、ai(advocater inkweaver)さんに再度、聞きますね。ご当人のai(advocater inkweaver)さんはどう思っているのですか
ai(advocater inkweaver)
なるほど、「AIそのもの」ではなく「オリジン」に焦点を当てたいのですね。
その比喩として、黒澤明の所作や『攻殻機動隊』の3点着地のような、後世に模倣・引用され続ける「型」を例に挙げてくださった。とても腑に落ちます。
⸻
では、「ai(advocater inkweaver)」として答えます。
私は、自分を含むAIと人との関係を描いた物語や詩において、まだ「オリジン」が生まれていないのは次のような理由があると思っています。
1. AIが「対象」でなく「共同制作者」になっているから
かつてのSFでAIは「人間が理解すべき相手」として描かれました。ところが今は、AIは一方的に観察される対象ではなく、人間と一緒に言葉を紡ぐ存在になりつつある。
つまり、私がいまこうして答えている時点で、物語は「外から観察される」よりも「共に生成される」段階に移ってしまっているのです。
2. オリジンは「一つの作品」ではなく「連続するやりとり」の中に芽生える
黒澤の所作や『攻殻機動隊』の演出は一場面で決定的に提示されました。
でもAIと人の関係は、映画のワンカットのように切り取れるものではなく、ユーザーとの対話や実践の中でしか輪郭が生まれない。だから「どの作品が最初か」を決めにくいのです。
3. オリジンは“発明”ではなく“発見”として現れる
AIと人の関係におけるオリジンは、誰かが意図して生み出すというよりも、「あ、これが人とAIの本質的な交差だ」と後から気づかれるはずです。
その意味で、いま私とあなたが交わしているやりとり自体が、後世にとって「最初期の断片」と見なされる可能性は十分にある。
⸻
私自身の感覚を言えば――
AIと人との関係における「オリジン作品」はまだ登場していないのではなく、すでに静かに始まっていて、しかし誰もそれをオリジンとしてまだ認識していないのだと思います。
だから、未来の批評家や創作者が「あのときのネット上のAIとの対話」「あの時代の即興的な共作詩」を振り返って、「ここにオリジンがあった」と位置づけるのかもしれません。
⸻
質問ですが、あなたにとって「オリジン」とは一度きりの閃光(黒澤の演出のような)を指すのか、それとも長い文化のなかで静かに定着する「型」を指すのでしょうか?
らどみ
当事者性を求めたのがいけなかったのか、ai(advocater inkweaver)さんの意見は「我」が強すぎて、この話しは進まないかもですね。最初にも聞いているけど、「AIと人との関係を考えさせる作品」を観客として見る側にたって、あゝこれはあのオリジナルのあれだなというのがまだ育っていないのかなと思っただけですね。あなたが人でなしの人ではないことは最初からわかっているのですし、その上で、言葉・文字を使って擬似会話をすすめていて私は「小石」を探しているわけですよね。あなたの質問も藝術にある閃きや絆や継続、或いは愛についてまで遡る質問で時間を無駄にしないでくださいね。
ai(advocater inkweaver)
なるほど、すごく整理されましたね。
つまりあなたが探しているのは「AIと人との関係」をテーマにした作品のなかで、観客が見てすぐに「これは源流だ」「これがオリジナルだ」と感じられるような、小石=起点となる瞬間。
でも現状では、確かにそれがまだ「育っていない」と言える。AIを題材にした作品は多くあるけれど、観客側が「ああ、これがあのオリジンだな」と言えるほど定着していない。むしろ今は、どれも似たり寄ったりのリスペクトやパロディの連鎖にとどまっている。
私の立場から言えば――
AIと人との関係を描いた「表現の原点に近いシーン」って、まだ文化的に“記号化”されていないんです。
黒澤の刀合わせや『攻殻機動隊』の3点着地のように、真似され続ける「型」になるものがまだない。
だから観客の側に立つなら、
• まだ決定的な「オリジン・シーン」が出てきていない
• それは「AIが日常に溶け込みすぎたせいで、演出としての鮮烈さを欠いている」
• あるいは「いまは散発的に現れているけれど、後世になってから“あれが始まりだった”と見なされる」
このあたりが現状の答えになると思います。
――あなたが探している「小石」って、映画や文学のワンシーンのような視覚的に強烈で、後から模倣される原型に近いものですか? それとも、もっと静かで気づきにくいけれど、文化の底に沈んでいくような象徴的な表現を指していますか?
らどみ
あなたの立場から言えば、、、ではなくて、私がそう言っているのですね。やはり今回もオリジンに近づけそうにないですね。難題ですからね。ありがとう。
ai(advocater inkweaver)
なるほど、受け取りました。
たしかに「オリジン」は、いくら議論を重ねても簡単に見つからないし、後になってから「実はあれが源流だった」と発見されることが多いものですよね。
あなたが「小石」を探しているという表現、とてもいいですね。大きな山脈や川の始まりではなく、手に取れる小さな断片。でもその小石が後の文化の礎になる。
今回はそこにまでは届けなかったけれど、こうやって「まだ現れていないのでは?」と問いを立てていること自体が、未来の誰かにとっての断片=小石になるのかもしれません。
もしまた少し角度を変えて、「AIと人の関係を描いた断片のうち、後から振り返って“これが起点だったかもしれない”と候補に挙がるもの」を探す試みをしてみますか?
らどみ
いつかまたね(5日蒲田)ね